「アラスカ:最後のフロンティア」という題のテレビ番組で、アラスカのキーナイ半島の美しい自然が映し出されていた。幾世代も前にこの土地に入植して暮らしている家族の話で、彼らは、牛を飼い、野菜を育て、狩りや釣りをして、土地の産物だけに頼って生きる独自のライフスタイルを守っていた。
臨機応変に必要を満たしてゆく彼らの才覚を見て、キリスト教科学の発見者、創始者であるメリー・ベーカー・エディの次の言葉を思い出した:「神はあなたがたに彼の霊的理念を与える、そして、それらの理念が、今度はあなたがたに日々の供給を与える」(Miscellaneous Writings、1883-1896、『小品集』、p.307)。神からくる霊的理念に心を開いていると、私たちは霊感を受けた考え、理念を、認識することができる、そして、それらの考えが、日々の必要が満たされるように導いてくれる。
イエスは、生来これを知っていて、それが彼の祈り、「主の祈り」の一節で明示されている:「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」(マタイ、6:11)。エディ夫人は、この1節を『科学と健康―付聖書の鍵』の中で、次のように霊的に解釈している:「今日の慈しみを与えて下さい;飢えた愛情を養って下さい」(p.17)。
年の初め、私は、収入という理念について考え始め、収入とは、私たちの日々の必要を満たすために、神が与える豊かな供給であると、考え始めていた。夫と私は、今や、定年退職者ゆえ、「一定」の限られた収入で暮らさなければならないという暗示を、受け入れる必要はないということに気づいた。キリスト教科学の勉強を通して、私はたとえどんな問題であろうと、祈りによって、また、神の法則を活用することによって、必ず答えがもたらされるということを学んでいた。それら神の法則の一つは、豊かさの法則である。
「ヨハネによる福音書」の中で、イエスは「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(10:10)と述べている。私は、これは、より豊かな生活であって、決して、乏しく、かろうじて生活しているという意味ではないと考えた。私は、豊かな生活とは何かについて祈ろうと心に決めた。そしてまた、豊かさの法則とは何か、そして、それはどのように働くのかについて、考えてみることにした。
人は、神の霊的な、そして完全な表現であるという、キリスト教科学の教えに基づいて祈っていると、私は、神は無限の善であるから、神の反映である神自身の子らに、すべての善を供給していることを認識するようになっていた。
そこで、私は、わが家にもたらされている善の証拠の一つ一つに対して、心から感謝するように懸命に努力した。例えば、友人から贈られたレストランのギフトカードは、神性の愛から派生する善の証拠であることを認識した。近所の人が手作りのデザートを持ってきてくれたときも、それは神の母なる愛が私たちの経験に示された証拠であると考えた。私の意識の中で、神の愛、神がいつも近くにいますこと、神の絶えざる加護についての認識が深まっていた。
ある時、神の愛について更に考えていたとき、神の愛は、実は、一人一人の個人の輝きとなって表されていることに気がついた。また、神の愛を理解すると、しばしば、ごく小さなことであろうと無私の行いをするように、うながされることを知った。そして、そのようなことが私にも起こったのである。
私の場合、夫と息子のために帽子をかぎ棒で編む方法を習おうという考えがひらめいた。そして、冬になって吹雪のあと、お隣の人が、わが家の車寄せの雪かきをしてくれた。雪かきのお礼のお金を、彼が受け取ろうとしなかったので、私は感謝の気持ちを表すために彼に帽子を編んであげることにした。翌週、彼がその帽子をかぶって、彼の店に仕事に出たところ、店のお客の一人がその帽子を非常に気に入って、帽子を2つ注文してきた。後で、その隣人が帽子の代金を届けに来てくれたが、驚いたことには、それは私が考えていた金額の2倍の額であった。
さらに帽子の注文が続いたばかりでなく、展示会や委託販売の店で、私のさまざまの手芸品が更に広く販売される機会ももたらされた。これは、私にとって、神性の愛が絶えず必要を満たしてくれているということの証明であった。
私は、いつまでもずっと帽子を作り続けようとは思っていないが、無限の心は絶えず正しい考えを私たちに供給し、これらの正しい考えが、適切な収入をもたらす新しい機会に導いてくれることを実感している。私たちが、自分の動機と活動を、無私の愛を現すことに十分に集中させ、供給の証拠の一つ一つに感謝し、そして、神、私たちの愛情深い父-母が、すべての善の供給者であることを認めていると、善の豊かさが更により多く私たちの生活のなかに現われてくるのである。
私は、固定された収入、あるいは限られた収入という考えを、揺るぎない確固とした原理、つまり神が、豊かな供給の源であるという霊的理念に、置き換えることができたことに、心から感謝した。この善の増してゆく証拠は、私たちの誰でもが、キリスト教科学の勉強を通して得ることができる、なぜなら、キリスト教科学は、存在の科学であり、私たちは神の愛する子らとして、善に満ちた生活を送るように定められているからである。豊かな生活が常に展開されてゆくことを理解し、また経験していると、それが自然に、他の人々にも恵みをもたらすのである。
このように神がすべての善の贈り主であることを認める訓練を重ねているうちに、私は、定年退職した人は皆、限られた収入による生活を強いられるという考えを受け入れる必要はないことを学んだ。むしろ、詩篇の作者が詩っていうように、「このような人は流れのほとりに植えられた木の、時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」(1:3)のである。
私はまた、次の言葉を頼もしい導きとしている:「明日のことを思い煩うな:神性の愛が常に現存する助けであること、それだけで十分である;そこで、決して疑うことなく、待ち望むなら、あなたの必要は、一瞬一瞬、すべて満たされるであろう」(『小品集』、p.307)。