次のようなことがよく言われる、「私は、今、抱えている問題について祈らなければならないのですが、祈りに何を含めるべきか確信がありません。基本的なことがすべて含まれているかどうか、どうしたら分かるでしょう?」
キリスト教科学における祈り、つまり治療には、決して決まった公式があるのではなく、私たちは、神が祈りを導いてくださることを信頼しているのである。しかしながら、祈りで取り上げるものとして、私が非常に有効であると思う基本的な概念が3つある。それらは、原因、実質、法則であるが、基本的にこれらは、物質的、あるいは身体的なものではなく、霊的なものである。キリスト教科学の教科書である、メリー・ベーカー・エディ著の『科学と健康―付聖書の鍵』には、これらの点が詳しく論じられている。
何か問題に直面したときに私たちの考えにしばしば浮かぶ、さまざまの疑問や暗示について考えてみると、これら3つの概念を祈りに含めることの重要性が見えてくるであろう。最もよく現れる疑問は次のものである: 1)「これはどこから来たのか?」(原因に関すること); 2)「物質的な体が病んだり、痛みを感じたりするとき、有効に祈ることが難しい」(実質についての誤った観念); 3)「この状態はいつまで続くのか?」(どんな法則が私たちを支配しているのか?)
神、霊が、唯一の原因である
第1の疑問、「これはどこから来たのか?」は、原因が霊的ではなく、物質的であった、あるいは、物質的である、という信念によるものである。もし、私たちが、この疑問を疑うことなく容認してしまうならば、私たちは、病気や不調和には存在する理由がある、つまり原因がある、ということを認めて、それらをやむを得ないものとして受け入れてしまうことになる。するとそれが現実に見えてしまうのである。
「創世記」は次の言葉で始まる、「はじめに神は天と地とを創造された… 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(1:1, 31)。「ヨハネによる福音書」の第1章は、この「創世記」の言明が正しいことを確認して、次のように述べている:「すべてのものは、これ(神)によってできた。できたもののうち、一つとしてこれ(神)によらないものはなかった」(1:3)。また、The New English Bibleは、この「ヨハネによる福音書」の一節を次のように表現している:「彼によって、すべてのものは存在するに至った。彼によらないで造られたものは何一つなかった」。
神、霊が、すべてではなかったことは一瞬もない、— つまり、一瞬でも、神、霊が、完全なるもののみを造り出す唯一の創造力でなかったことはない。心が、自らを現していないとき、そして自らの完全な創造を維持していないときは、一瞬もないのである。
これは、もし誤りが、物質的な原因が存在すると主張し、従って、過去に、それがつい一瞬前であったにせよ、その出発点があった、と主張するような時があれば、私たちは即座に、この議論を否定すべきである、そして、否定できることを、教えているのではないだろうか? 誤りには、絶対に始まりがない、なぜなら、神は誤りを創造していないからである。誤りには原因がない、存在する理由がない、したがって私たちが、それを記憶して、恐れ、嘆くような過去はないのである。
霊が創造し、構成するものが、唯一の真の実質である
2番目の疑問、「なぜ、物質的な体が病み、痛むとき、有効に祈ることが、それほど難しく思われるのだろうか?」は、物質が私たちの存在の実質であるかのように思われ、受け入れられるように、巧妙に、主張しているのである。私たちが、真の実質は物質的であり、この問題は物質にある、ということに同意する限り、その問題をキリスト教科学で癒すことはできない、なぜなら、キリスト教科学は、神が、また霊が、すべてであるという基本から出発するからである。物質が、どれほど肉体的感覚に触知可能なものに思われたにしても、霊は物質を含まない、そして、霊は物質を創造したこともないのである。そして、私たちは霊によって創造されている。
聖書は非常に明確に、創造主なる神は、霊であり、人は神の反映であると述べている; そしてキリスト・イエスは、肉と霊は正反対のものであると告げたのである。従って、人の真の実質は、霊的であり、調和にあり、永久に完全でなければならない。これが、唯一無二の原因の反映である私たちの本来の姿、人となり、本質なのである。あなたも私も、この神に創造された人であり、完全に霊的であり、霊的に完全である。私たちの存在はすでに、そして常に、神性の不滅の霊の完全無欠の表現である。
それゆえ、霊的実在には、実質についての誤った感覚が存在したり、活動したりする場はないのである。誤りは、霊の実質のうちには存在できず、存在しない。そして、霊的実在が唯一の実在であるから、物質は存在せず、従って病んでいる、あるいは不調和にある物質を信じる信念も、存在し得ないのである。
『科学と健康』は、キリストを「神の神性な具現であり、肉に来て、体にある誤りを滅ぼすもの」(p. 583)、と定義している。この「肉」は、生命は霊から切り離され、いずれ弱り衰退する運命にあるという、生命についての誤った感覚であると、定義することができる。キリストのメッセージは、この誤った見方、生命についての誤った感覚に、完全な神、霊、そして完全な人についての真理をもたらす;つまり、霊的原因、実質、法則についての真理をもたらすのである。そして、この真理の光が、誤りを正し、破壊し、癒しをもたらすのである。
キリスト・イエスは、彼が神の子であるということばかりではなく、私たち一人一人が神の大切な映像・似姿であり、神が創造した完全な人であり、物質ではなく霊によって創造され、維持されている、ということを教えた。
人と宇宙が物質的であるという世間一般の考えは、限りある誤った信念にすぎず、この考え、一般的概念には、所在も、媒介も、人物も、場所もなく、またその中で働くための物も、働く対象となる物もない。それは存在して、何かを行う力も能力も持たない。もちろん、霊がすべてであるという見地から祈ることは、私たちが人間界で見ているものすべてが一掃されてしまうことを意味しているのではない。イエスが萎えた手の男の人を癒したとき、その萎えた手そのものが消えたのではなく、その手が萎えているという信念が消えたのである(マタイ12:10-13参照)。実は、その状態は、そもそも物質的感覚の幻影にすぎなかったのである。
エディ夫人はこの癒しについて、Unity of Good『善の一致』の中で次のように説明している:「イエスは人間の意識に対して、あるいは感覚の証拠に対して、身をかがめ、屈することはなかった。彼は、『萎えた手は本物に見え、現実である、と感じられるではないか』というあざけりには、注意を向けることはなかった;逆に、彼は物質的証拠を取り去って、この空しい傲慢さを締め出し、人間の誇りを打ち破ったのである」(p. 11)。 イエスは、今、この場において、現実に、人の機能はすべて霊的であり、すでに非の打ち所なく、霊に従って機能していることを理解していた。このキリストのメッセージが肉にもたらされ、その結果、人間の見方が正され、この正しい見方が、正常な形態と活動が回復されていることを見たのである。
神が唯一の立法者である
イエスの癒しは、繰り返し、繰り返し、神が唯一の立法者であることを証明した。彼は健康状態、回復度、治癒の可能性、不治などを決める法則であると主張する嘘を覆した。そこで、第3の疑問、「この状態はいつまで続くのか?」は、私たちを本当に支配している法則について、より深く考えるための機会となる。
Unity of Goodの上記の引用文の直前に、エディ夫人はイエスについて次のように書いている:「彼は物質の法則を無効とし、物質の法則は、神の法則ではなく、滅びる人間の心の法則であることを示した。彼はこの人間の心と、その失敗に終わる法則を変える必要があることを示した。彼は意識とその証拠を変えることを命じた、そして、より高い神の法則によってこの変化を実現させた。麻痺した手は、肉体の法則と秩序の得意げな感覚にも関わらず、動いたのである」(p.11) 。
イエスは、神と人が非の打ち所なく完全であるということを、完全に理解していた。彼は神の法則がすべてを支配し、私たちの健康を管理する唯一の法則であることを知っていた。彼は私たちに、神の法則は公平で普遍的であることを教えた。神の法則は、ただ一人の人、あるいはほんの僅かな人にだけ働くものではなく、すべての人に適用されることを教えた。そこで、私たちもまた、神が唯一の力であり、すべてを統治し、私たち一人一人は神の法則の下、神の優しい力強い保護のもとに抱かれており、永久にあらゆる害から守られていて、絶えず調和を経験していることを、知ることができるのである。
『科学と健康』に、「キリストは、破壊できぬ人を示す、それは霊が創造し、構成し、支配する人である」(p. 316) と書かれている。物質が人を創造し、構成し、統治するという誤った主張は、否定されなければならない、そして、私たちは、原因力、実質、そして法則の源は霊である、という絶対的真理を断言することができる。すべては神に属し、善であり、善のみである。すべては神の中で起こっており、神によって統治されている。
この真理の権威の下に、私たちは自分の祈りに自信を持って、前進することができる。誤りの嘘は、それがどんな名前を持ち、どんな性質を持っているにしても、過去は持たないのである、なぜなら、心、神が、唯一の原因だからである。誤りが、私たちにどんな過去があると主張しようとも、また、これが私たちの現在の現実であると主張しようとも、それは実在しない、なぜなら霊が常に現存し、私たちの存在の唯一の実質だからである。さらに、決定的要因は次のものである:神、真理が唯一の統治者であるゆえ、嘘にはまた、未来もないのである!
祈りとは、霊的に推論することである、と考えることもできる。私たちが、真の原因、実質、そして法則という概念について考えるならば、― それらについて科学的基盤から推論するならば ― 私たちの真の存在は、これまでも常に、そしてこれから後も常に、「霊が創造し、構成し、支配する」、破壊され得ない人であることが、よりよく理解できるのである。