私は16歳という少年の頃、たばこを吸い始めた。そして、学校が休みの間に、ビールも飲むようになっていた。この習慣は急速に進んで、私はやがてアルコールとたばこの中毒になってしまった。
私は近くのカトリック教会の活動に参加してはいたが、霊的に成長していなかった。反逆児となり、暴力的になり、頻繁に、近所の少年たちと争いごとを起こすようになっていた。争いはいつも、過度の飲酒が原因で引き起こされたのだった。私は、自分は信仰心のある若者であると思っていたが、高校を卒業して間もなく、教会から離れてしまった。
こうして遊びと暴力漬けの放縦な日々が始まった。妻と離婚してからますます酒浸りになっていった。自分の人生に自らもたらした不幸を振り返っては、不安を募らせ、激しくたばこを吸い、朝はなかなか起きられなかった。神と交わりたいと願いながらも、罪悪感にさいなまれ、「神様、ああ神様」と涙をこらえて嘆くことしか、自分にはできないのだと感じていた。私は多くの罪を犯してきたことに気づいていたが、どうやって悔い改めることができるのか分からなかった。およそ10年の間、そんな惨めな人生を送っていた。私は古くからのまじない師や、占い師に相談したが、状態はひどくなる一方だった。お金は底をつき、以前知り合いだった友人をすべて失った。
だが、自分は一人ぼっちだと感じている時でも、決してその人を見捨てない存在があるのである。神は決して人を見捨てない。私は、キリスト教科学の教会がハラレにあることを何年も前から知っていたが、自分はカトリック教徒であったので中に入ってみることはなかった。だが、ある金曜日の午後、通りを歩いていたとき、キリスト教科学の読書室のウィンドーにはどんな本が展示されているのか見てみようと思ったのである。
これが私の人生の転換点となった。読書室に入ってゆくと、受付の男性が心のこもった言葉で迎えてくれた。私は、彼に聞こえるほどの声で話すことができなかったので、彼には私がストレスで疲れ切っていることが分かったに違いない。私は何とか受けた挨拶に答え、自分は助けを求めていると言った。彼は支教会のこと、癒しについて、また入手可能なキリスト教科学の出版物について話してくれた。彼は、「あなたのために祈りましょうか」と聞いた。私は祈ってほしいと答えた。彼はキリスト教科学の教科書である、メリー・ベーカー・エディ著の『科学と健康―付聖書の鍵』を貸してくれた。彼はまた水曜集会、日曜礼拝に私を誘ってくれた。
深い安堵感を覚えながら、家に帰った。そして、私はすぐにその教科書をむさぼるように読み始め、今まで聞いたことのない真理に出会った。私は日曜礼拝と水曜集会に参加するようになったが、水曜集会では薬を使わずに癒された人々のすばらしい証言を聞き、とても有益であった。
『科学と健康』、キリスト教科学の定期刊行物、そして聖書を読み続けていたところ、自分がもはやお酒を飲んでいないこと、また、たばこを吸うこともすっかり忘れてしまっていたことに気づいた。私は不安からたばこを吸い、憂鬱のせいで酒を飲んでいたのである。そこで、私は自問してみた、もし、私が神の映像、また似姿に創造され、神の霊的で、完全な理念であるなら、どうして私は痛みや不調和に苦しみ、また、ビールやたばこのような物質に頼ることなどできるであろうか? 私は、このようなものは神の国には存在せず、神によって創られたものでもないことを確信した。神によって創造されたものはすべて善であり、調和にある;したがって私もまた善であり、調和にあるはずであった。
私は、49年間のアルコールとたばこの中毒から、解放された。また、肉体的、感情的な苦しみから解放されるために、薬などの物質的手段に頼ることを完全に放棄した。キリスト教科学の発見者であり創始者である、メリー・ベーカー・エディは、『科学と健康』の中で次のように書いている:「神性科学が、肉の心に対する信頼を克服し、そして神への信仰が、罪と物質的な癒しの手段への信頼を滅ぼす時に、罪・病・死は消えうせるであろう」(p.395)。実際、私の不安などの苦しみは、私の誤った人間的感覚が、霊的真理と神の愛のより深い理解に屈したとき、消えてしまったのである。キリスト教科学によって、酒に酔うこと、たばこに真の楽しみがあるとする幻想、また、酒を飲み、たばこを吸いたいという欲求が、打ち砕かれたのである。
私をキリスト教科学に導くために、神がなさってくださったことに心から感謝している。