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教会が生き生きとしてきたとき

キリスト教科学さきがけ』2016年12月12日号より

The Christian Science Journal, 2016 年7月号


「なんて退屈なのだろう」。これが、私が20歳になって、キリスト教科学の日曜学校を卒業して、初めて支教会の日曜礼拝に出席したときの正直な感想だった。最初の2、3週間、非常にしぶしぶ、日曜礼拝に出席していた。私は礼拝で霊感を受けることがなかった。すでに1週間、毎日、自分で勉強してきた聖書教課を、教会で朗読されるのを聞いても、どんな意味があるのか理解できなかった。まもなく、日曜学校で教えるという任務を与えられた。そして、2、3年後、再び教会の礼拝に戻ることになった。

今度は、以前のように霊感に欠けるという思いを味わいたくなかった。教会の礼拝は「癒しの礼拝」であると、人が言うのを度々聞いたことを思い出していた。その後、キリスト教科学の刊行物Christian Science Sentinel (クリスチャン・サイエンス・センチネル)の記事を読んでいて、メリー・ベーカー・エディが、次のように述べていることを知った:「かつて、彼女はある生徒に言ったことがある: キリスト教科学の教会に足を踏み入れた人は誰でも、たとえどれほど病に苦しみ、またどれほど悲しみにくれていたにしても、癒されないで出てくることはないという日が来ることを、私は切に願っている」(Florence Clerihew Boydフローレンス・クレリヒュー・ボイド、「群衆を癒すということ」、1916年7月1日号)。どうしたら、教会がもっと心を満たしてくれるようになるだろうか、ということについて祈り始めていたので、このエディ夫人の言葉は私にとって非常に意味深く感じられた。。

ある日、祈っていると、聖書とメリー・ベーカー・エディ著の『科学と健康―付聖書の鍵』は、言葉であり、真理の声であるという考えが心に浮かんだ。つまりそれは、礼拝において一回一回、が直接、教会に集った私たち会衆の一人一人に語りかけているのであるということであった。それでは、はどのように話しかけているのだろうか。聖書の中に、「の言葉は生きていて (quick)、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭い」(ヘブル 4:12)と書かれている。このquickという言葉は、生き生きとしている、活動的である、という意味で使われることもあることが分かった。つまり、礼拝は、2人の朗読者が説教を読むのを、ただ受動的に聞くということではないのである。礼拝は、が私たち一人一人に語ろうとしていることに、私たちが耳を傾けるにしたがって、生き生きとしたものとなり、活力あふれるものとなるのである。これ以上に、癒しをもたらすものがあり得ようか。 

この洞察を得て、私は、教会に行くたびに、その礼拝は、また世界中で行われている科学者キリスト教会の礼拝は、癒しの礼拝であることを、確信できるようになった。また、私は、これから聞くのは一週間読み続けてきたものの退屈な繰り返しではなく、礼拝は、言葉礼拝に出席している人たちすべてに、新鮮な洞察をもたらしているのであることを、再確認していた。礼拝は、私にとって、前と少しも変わらない形で行われていたにもかかわらず、その同じ礼拝が、以前とは比べものにならないほど霊感にあふれ、生き生きとしたものとなり、活気にあふれていると、感じられるようになったのである。そして、私が自ら積極的に礼拝に関わるならば、私がそこに出席していることが、礼拝に集まった人々に癒しの効果をもたらす助けとなることを、理解し始めたのである。

何か月かの後、私自身、礼拝がもつ癒しの本質を体験した。ある土曜の夜、友人たちと森の中で長時間を過ごしたのだが、翌朝、目が覚めると、体中蚊に刺されていたことに気付いた。かゆさを伴う痛みは耐え難く、蚊に刺された跡が非常に目立っていた。私は、キリスト教科学の実践士である母に電話をして、一緒に祈って欲しいと頼んだ。かゆみは多少治まったものの、依然としてひどい不快感に悩まされていた。

日曜の朝だったので、礼拝に出席しようかどうか迷った。教会には行きたかったが、落ち着いた気持ちでいられないのではないかと心配だった。それに、自分の姿が恥ずかしかった。

ずいぶん考えた末、礼拝に出席しようと決心した。その日の説教の内容は特に覚えていないのだが、はっきりと覚えているのは、信じ難いほど穏やかな気持ちになっていたことである。教会が終わって2、3時間過ぎたころ、ふと気付いたのだが、礼拝中のどの時かに、かゆみが消え、蚊に刺された跡も消えてしまっていたのだった。私は、この癒しに心から感謝した、そして、この癒しは偶然に起きたことではないことを知っていた。礼拝に集まった人たちは、その1週間、聖書教課を勉強し、その癒しの効果を実証していたのである。そして、礼拝において、彼らは礼拝のために、また会衆のために祈っていたのである。私の癒しは、その日曜日に起きた多くの癒しの一つにすぎなかったに違いない。

初めにあげた記事は、また、次のようにも記している、つまり、エディ夫人によると、教会の礼拝は、「教会の会員一人一人が、その週の聖書教課に含まれている真理を勉強し、実証し、こうして用意された意識をもって礼拝に出席するとき」、癒しをもたらす礼拝となるのである。これは、おそらく、すべての教会会員に要求されている、何よりも厳しい務めの一つであろう。しかし同時に、これはまた、私が見いだしたように、何よりも報いのある務めの一つでもあるのである。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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