私はかつて、一週間に2度つづけて癒しを経験し、また目撃した、これらの経験はいずれも、暗闇の中にあった人間の考えに、神、真理の光を照らしてくれた。
私の家族は、当時、エチオピアに住んでいた。夫は仕事でエチオピアの農村地帯に出張していて、私は、2歳から13歳の4人の子供たちと自宅にいた。その週、8年生の娘が学校の活動で、エチオピアでもかなり遠方の辺ぴな地方に冒険旅行に出かけることになっていた。彼女は、この冒険旅行を楽しみにして、胸をわくわくさせていたようだが、中学生にとって楽なものでもなさそうにも思えているようだった。母親として、私は彼女が耐えられるだろうかと、心配だった。
彼女が出発して間もなく、週の初めに、私は、顔に強い痛みを覚えた。翌日、目立つほど目が腫れてしまった。これらの症状はばかげていて、また心を混乱させるものだったが、私には、自分が心に抱いている心配が体に表れているのだろうと思われた。そしてこれは、私が夫や娘のことを心配するのを止めるようにと、促してくれているように思えた。心配するのではなく、祈る必要があった、そして、自分自身のためだけではなく、遠くにいる2人についても、祈る必要があったのである。
天使の伝言、つまり神からの考えが、祈りを通して私に届いた、それは、常に澄んだ目を持ち、自分の考えを神の全能と、神の善意のみに向けるようにということだった。これは、キリスト・イエスが述べた次の言葉に基づいている:「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう」(マタイ 6:22)。私は自分の考えのなかに、真理、神、善の光のみを受け入れたいと願った、それは、いかなる恐れや心配の暗い気持ちをも、追い払ってくれるからである。
キリスト教科学の教科書、メリー・ベーカー・エディ著『科学と健康—付聖書への鍵』は、「目」について次のように霊的に定義している:「霊的な識別力、- 物質的ではなく、心的なもの」(p. 586)。自分の目を常にこの真理の光のみを見るように保ち、霊的な識別力を深めていると、恐れや心配は誤った信念であることが見えてくる。恐れや心配は、神の永遠の善意からくるものではないのである。私たちは真理の光を深く認識することによって、恐れや心配を克服するのである。
この努力を続けていると、私は、三日目には、顔の痛みが消え、目も正常に戻っていることに気づいた。ところが今度は、耳が痛くなった。しかし、私はすぐに、この又もや現れたやっかいものは、みにくい茶番であることに気づいた。つまり、私が神の全知、遍在、癒しの力のみに考えを集中する努力を、邪魔しているのであることが分かった。注意が散漫にならないように努めていると、耳の痛みは間も無く消えた。
4日目の早朝、私がこうして心的にも、霊的にも、準備ができているとき、娘が電話してきて、ひどい消化不良を起こし、気分が悪いと言った。そして、他の生徒たちは山の上の村に出かけるが、自分はロッジに残りたいと言った。
電話を通して、娘と祈ることができた。電話を受ける前に勉強していたその週のキリスト教科学の聖書教課に出てくる考えを、彼女に伝えることができた:「神はどこにでも存在し、神から離れては何も現存せず、力をもたない」(『科学と健康』(p. 473)。彼女はその考えが大変気に入り、この考えに大変助けられると言った。
電話を切った後、私は、癒しをもたらす神の遍在と力についてもっと良く理解できるように祈った、そしてまた、神の仕事をする責任は私個人にあるのではないことを、よりよく理解できるように祈った。どんな場合にも、神が癒し手なのである。親として、また神の癒す力の目撃者として、私の役割は娘のために誠実に祈り、自分の考えを神の考えに符合させることであった。
私は、神の無限の力を理解したことによって、力づけられ、慰められ、癒されたことを実感した。そこで今度は、この霊的理解が、どのように娘に癒しとなって示されるかを知る機会を与えられていたのである。私は、自分の考えに真理の光を照らすことは、暗い部屋で電気をつけるようなものであることに気づいた。部屋にいる人すべて、つまり自分の考えの「部屋」にいる人たちすべてが、その光によって益するのである。
ある意味で、私は、自分の祈りが200マイルも離れた所にいる娘をどのように助けることができるのかを示す印を、謙虚な心で、神に求めているように感じていた。私は、この癒しの実践をもっと効果的に行うために、科学的キリスト教の癒しというものを、もっと十分に理解したかった。私は、心、神は、時間とか場所に制限されないことを、常々口にしていた。しかし、この瞬間、自分は、この真理を心から確信できず、印を求めたのだろうと思う。
しかし、私は神に印を求めることを、多少ためらってもいた。聖書には、ある役人がイエスのところに来て、家に来て息子をなおしていただきたいと願ったとき、イエスはその役人をお叱りになったらしい話がある(ヨハネ 4:46-54参照)。イエスは彼に言われた、「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう」。イエスは、役人といっしょに彼の家には行かずに、彼に「あなたの息子は、今、良くなっている」と告げた。役人はイエスを信じた、そして家に帰る途中で、彼は息子が癒されたという良い知らせを受けた、そして、その癒しは、彼がイエスと話していた時と同じ時刻に起きたことを知った。
私は、この話について考えていて、恐らくイエスは、私たちが彼に従って、彼が行う印や奇跡にただ驚き、感銘しているのではなく、むしろ、イエスが示す模範は、神の私たちに対する深い、恒久的な愛を、心から信じ、知らねばならないのであること、そして、それが癒すのであることを教えているのだろうと推論した。イエスは自分が行なったことすべてについて、神に栄光を帰した。「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである」(ヨハネ 5:19)、と彼は言っている。
この役人のように、私も、神の癒しの力を信じ、信頼し、そして、この力は、娘が今いるその場所に存在することを、知らねばならないのだと実感した。
これらの洞察は、私の祈りに多くの霊感を与えてくれた。娘が、午後遅く電話してきて、元気になったと言った。彼女は結局、グループとともに高い山の上にある村に出かけて行ったのである。彼女は計画されたすべての活動に参加して、友達と楽しい時を過ごした。この実証は、癒しをもたらすキリストは、つまり、「神の神性な具現であり、肉に来て、体にある誤りを滅ぼすもの」(『科学と健康』、p. 583)は、常に存在することを示す印であった。
この癒しを特に素晴らしいものにしてくれたのは、娘が自宅に戻ったとき、グループの付き添いとして行っていた人が、次のように私に話してくれたことである:娘はあの日の朝かなり調子が悪く、吐いてもいたのだが、その付き添いの方は、娘を一人ロッジに残して行きたくなかったので、村に連れて行くことにした。それでも、その付き添いの方は、娘の状態を心配していて、他の生徒たちはバスで行ったが、娘は、付き添いの人たち数人と共に、必要な時はいつでも途中で車を止めることできるように、ピックアップトラックで行った、とのことであった。
その付き添いの方は、2時間前に見たときは、非常に具合が悪そうであった娘が、村に着いてピックアップトラックからおりてきたとき、元気いっぱいで、エネルギーに溢れ、完全によくなっていたので、本当になぜそんなことが起こり得たのか、自分には理解できないことだったと幾度も言っていた、しかも、娘には薬を一切与えていなかった、と言ったのである。その人は、このように大きな変化が起きたことが信じられないと、繰り返し言っていた。
私は、深い感謝の気持ちをもって、この「印」に感謝している、これは、神が唯一の癒しの力であることを見事に示す「印」である。これら2つの癒しの経験は、申命記の次の言葉を思い起こさせる:「あなたにこの事を示したのは、主こそ神であって、ほかに神のないことを知らせるためであった」(4:35)。
Samuela Orth-Moore, サムエラ・オース-モア
ケニア、ナイロビ