ドイツその他ヨーロッパ各地で甚大な被害を及ぼした洪水についての記事を読みながら、私は、マルチン・ルターの賛美歌の言葉を思い起こさずにはいられなかった。それは次のように始まる:
神は我らの強き砦、その防壁は決して崩れず、
神は我らの助け、人間を襲う不幸の洪水のただ中で、すべてを支配する。
確かに、洪水は、実際に沢山の「人間的不幸」をもたらし、多大の損害を与え、多くの人々から住まいを奪ってしまった。その上、各自治体の対応のまずさへの不満もあるに違いない。2002年に中欧を襲った洪水で、多くの教訓を得てきたはずであるが、洪水は常に異なった様相を呈し、その災害を被る人々の状況もさまざまなのである。
しかし、自然災害、あるいはまた他の災害に対して、効果的な対処の方法に共通する要素について熟考するならば、愛こそ、唯一無二の、苦しみを和らげ、支援者に力を与え、賢明で思いやりある対策を選ぶ戸口に導いてくれるものである。聖書には、次のように書いてある:「愛に、立ち向かえないものはない;愛の信仰、希望、忍耐力は、無限である」(第1コリント 13:7、New English Bible)。
愛は、力づけ、慰め、思いやり、そして救う。この愛は、神性の愛であり、真の砦であり、防壁であり、助けである。神性の愛の無限の現存は、過度の緊張にさらされた役人たちの心に寛大さを与え、苦難に満ちる人々に思いやりの心をもたらし、心配する親戚や友人たちに忍耐を与え、洪水の現場に出動して濁流と闘う人々に勇気を与え、土嚢を作り、その他さまざまの洪水対策に励む人々を力づける。
この愛は、抽象的な愛ではなく、悩める人々にとっていと近き助けとなる神の善意と力である。メリー・ベーカー・エディは次のように記している:「愛は単なる抽象ではあり得ず、行動と力を伴わない善意はない。人間の本性としての愛情のもつ意義は、言葉以上のものである:それは、密かに行なわれる優しい、無私の行為;口には出さない絶えざる祈り;あふれる利他の心である;...」(Miscellaneous Writings (ミセレニアス ライティングス) 1883-1896)p.250)。
直接に洪水の影響を受けていない私たちも、祈りを通して、また、神の力と愛は、今、現存し、助けと癒しをもたらすという確信を通して、この力強い働きに加わることができる。これは、イエスが癒しの使命を果たしたときに頼りとした、あの同じ力である、彼が嵐の海の上を歩き、そして、「静まれ、黙れ」と言って水面を静めたのと同じ力である(マルコ 4:39)。
イエスは、キリストの力を証明していたのである。神の力が人間の世界で現されることを証明していたのである、そして、彼に従う者たちもまた、人を助け、癒し手となるようにと要求した。
私たちの祈りは、苦難の地に守りと平安をもたらすことができる。家を荒らされまいと自宅から離れることを拒む多くの人々に、守りと平安を届けることができる。祈りは、この混乱状態を鎮めようと奮闘している人々、特に、刻々と変わる状況に圧倒されがちな役人たちに、霊感を、そして名案を、もたらすことができる。そして、愛する人たちの安否が知れず恐怖の念にさいなまれている人々、また自分の家がどうなっているか心配でならない人々の心を、高揚することができる。
これらの祈りは、被災地の復興を支援することもできるのである。この復興への祈りは、事業が進展するなかで、賢明な、正しい情報に基づいた選択ができる機会を、もたらしてくれることができる。過去に捕われた絶望感や苦悩の代わりに、心を希望で満たすことができる。
私は、聖書の黙示録の中にある次のメッセージが大好きである:「見よ、わたし(神)はすべてのものを新たにする」(21:5)。新しいことは、新たな出発、喜び、霊感、進歩を含むことができる。この約束は、私たちの祈りの、そして洪水の影響を受けたすべての人のために私たちが抱く期待の核心となって、霊感を、また良き考えを、もたらしてくれることができる。