何年か前、大きな地震がメキシコ市を襲った。驚いたことに、倒壊した中央病院の瓦礫の下で、多くの新生児たちが、救助隊が到着するまで幾日ものあいだ、生きのびていたのである(1985年10月16日付、New York Times紙参照)。最初に対応した人たちの懸命な努力は決して過小評価されるべきではないが、これらの新生児たちが生きのびたことは、無垢、純粋さがもつ力を,伝えているのではないだろうか。
神、純粋な心、の似姿である私たち一人一人の本性には、何かしら絶え抜くもの、決して消し去ることができないものがある。私たちはみな、この完全で侵され得ない心の完全無欠な理念である。
鋼鉄の梁(はり)を例にあげるなら、それはいかにも強固で、破壊されることなどあり得ないと思われるであろう。ところが、梁そのものの理念は、それ以上に破壊され得ないものなのである。梁の上に爆発物を落とすなら、梁は完全に消滅してしまうかもしれない。しかし、梁の理念に爆発物を落としたとしても、理念は何の傷を受けることなく、元のままである。
人は、不滅なる神の侵され得ない理念である。キリストは、神が人間の意識に送るメッセージである。キリストを通して、神は私たちに私たちが侵され得ないものであるという約束を、知らせている。キリスト教科学の教科書、メリー・ベーカー・エディ著『科学と健康—付聖書の鍵』は、それを次のように端的に表している:「キリストは、破壊できぬ人を示す、それは霊が創造し、構成し、支配する人である」(p. 316)。この約束を、私たちが祈りをもって認めれば認めるほど、私たちが何かの理由で神から壁で仕切られているとか、私たちは恒久的に有用であるという約束が否定されているとかという、間違った考えが覆されてゆく。
キリスト・イエスについて考えてみよう。彼の敵たちは、この世におけるありとあらゆる憎しみを、彼に浴びせかけた。しかし、それは父からの愛のメッセージを、ほんの少しでも弱め、侵すことはなかった。神は、自らの創造の仕事に永久に携わっており、この創造の中に私たちも含まれている。神は私たちを精巧な作りをもって創造する。神は私たちの構成要素であり、私たちを維持している。神は私たちを支配し、加護している。これらの神性な活動は、破壊的なことには一切関わらない。まさしくその反対である。これらの神性な活動は、私たちのキリスト的な侵され得ない力を、霊的理念として働かせている。今日もなお、神は私たちへの自らの愛を通して、自ら創造したものと共に働いている。神が自らの全家族に与える加護は、止むことがない。従って、私たちも変わることがない。
あなたの存在の侵されない本性は、スーパーヒーローのよう身体とは、無関係である。むしろ、真に侵されないものは、あなたの真の姿である霊的に実質的で絶え抜く要素を含むものである、— それは、侵され得ない純粋な無垢、健康、喜びであり、しかも供給と、目的を伴うものである。そして、この他にも、もっと沢山のものを含んでいる。
あなたは、永久に霊的であり、永久に理想の存在であって、永久に侵されることがない。この事実は、決して変わることがない。