私がキリスト教科学の公認の実践士となって間もないころ、ロサンゼルスの刑務所を訪問牧師として訪れていたのですが、近くにマクドナルドのお店があって、刑務所で教会礼拝を行う前に、ちょっと軽食をとるには好都合のところでした。そしてまた、暴力的犯罪が横行しているこの地域で、唯一の軽食レストランでした。
ある晩、刑務所に行く前に、財布とChristian Science Sentinel(クリスチャン サイエンス センチネル)だけを持って車を降り、ソーダを飲もうとマクドナルドに寄りました。その晩の礼拝は、いつもながら、受刑者にとっても、ボランティアにとっても、考えを高める、霊感あふれるものでした。家まで運転して帰るときも、私は神の善と愛への感謝の気持ちでいっぱいでした。
ところが、翌朝、受刑者たちと個別に会って話すため、刑務所に出かける準備をしていたとき、前の晩に寄ったマクドナルドの席に、財布を置き忘れてきてしまったことに気がつきました。
すぐ神に心を向けると、次の2つの問が頭に浮かびました。1つ目は、「神には、すべてのことが可能であることを、信じているか?」というもので、2つ目は、「この経験を使って、神性原理以外には何も存在しないことが、証明できるか?」というものでした。両方の問に対する答えは同じで、私の動揺した気持ちをすべて拭い去ってくれました。私は、実際声に出して「はい、できます!」と答えたのです。この確信を得て、紛失、個人情報の盗難、自責の念などに関する恐れの考えを、否定することができました。その結果、私は、刑務所に行く前にいつもしていることを通常通りやりましょうと、決めました。ただ、マクドナルドに電話を入れることにしました。
昼のシフトのマネージャーによると、昨夜、このレストランで財布の届け出はなく、財布が見つかったということもなかった、ということでした。それでも、私はひるまず、人は純真であり、誠実であり、そして、神、真理と一体であることを、もっと明確に理解できるように、祈り続けました。それから車に飛び乗ると刑務所に向かいましたが、その前にマクドナルドに立ち寄りました。
マネージャーにもう一度、奥の部屋などを探して欲しいと頼みました。マネージャーは見て回ってくれましたが、やはり財布はなかったと言いました。そして、すまなそうに、自分の財布について起こったこと、また複数のクレジットカードを不正に使われたときのいやな経験を話してくれました。そして、私もクレジットカードをすぐにキャンセルした方がよいと、言ってくれました。レジのところにいる店員も、横目で私を見ながら、「あなたの財布は、もうとっくになくなっていますよ」と言いました。
そこで、私は、もしこの状況において、クレジットカードをキャンセルしたとすれば、私は紛失したことを現実として受け入れてしまったことになると思いました。そして、私の祈りに応える天使のメッセージは、次のように声高くはっきりと告げていました:「神は私を見捨てない。何ものも、つまり、誰であろうと、どのような状況であろうと、また、どのような事情であろうと、正当に私に属する物を、私から奪うことはできない」。
メリー・ベーカー・エディは、「患者を取り囲むもろもろの心が、患者を恐れさせたり、また落胆させたりするような意見を絶えず述べて」(『科学と健康ー付聖書の鍵』、p. 424)、治療に反するような影響を与えないことが、形而上学の治療において重要である、と述べています。私は、神性の心の鎧で身を固めてマネージャーとレジの店員に、「もし、あなたが誰かの財布を見つけたらどうしますか」と聞いてみました。すると、2人とも、あらゆる努力を払って正当な持ち主を見つけて、その人に返します、と答えました。「正に、それが正しいことですね!」と私は言いながら、彼女たち自身が誠実であることの価値を認識していることが、どんな意図していない「相反する心的状態」(p. 424の欄外見出し)も、静めてしまうに違いない、と思いました。
それから、私は、夜のシフトのマネージャーに連絡してもらえないかと頼みました。その人の携帯電話にメッセージを残してくれました。その人が折り返し電話してきた時に、昼のシフトのマネージャーが、「つまり、財布があったのですね? そうですか、でも、金庫に入れなかったのですね? どこに置いたのですか?」と言っているのが聞こえました。そして、そのマネージャーは奥の部屋に消え、すぐに、私の財布をうやうやしく捧げ持って、戻ってきたのです。
彼女は、信じられないという表情で、私を抱きしめ、「あなたは本当に幸運な人ですね」と、つぶやきました。レジの店員も驚いて目をみはっていました。私もマネージャーを抱きしめて、この経験は、私にとって運が良いなどということではなく、むしろ、自分の日々の生活のあらゆる面で、神をもっと信頼することを学ぶ機会となりました、と話しました。彼女は初めてにっこりして、自分も同感だとうなずきました。
財布からは何も無くなっていませんでした、— 1セントも、クレジットカードも、運転免許証もです。
私は改めて、神、神性の愛が、すべてであることを学びました。そしてまた、「黄金のアーチ」(マクドナルドのロゴ)の下で時を過ごす私の兄弟姉妹の何人かの人も、同じことを学んだに違いないと、私は信じています。