冬季オリンピック男子フィギュアスケートの金メダリスト、羽生結弦は、東北地方の出身で、3年前、2011年3月11日に発生した地震と津波の災害に遭遇していた。被害は甚大で、大勢の人が避難所で苦しい日々を送るなか、彼自身は、自分がスケートなどしていてよいのか、オリンピックに挑戦する念願を断念すべきではないのか、と思い悩んだ。しかし、彼は不屈の精神をもってその危機を乗り越えた。震災で家が壊れ、遠い地のスケートリンクで練習し、さまざまの苦難に遭遇しながら、彼は、自分の目標に向かいつづけた。それは、ただ金メダルを故郷に持ち帰るということだけではなく、 なお厳しい非難生活を強いられている人々のために、自分に出来る最高のスケートをして、役立ちたいとの強い願いからであった。
彼はインタビューの中で次のように語っている:被災地に住みつづけて、復興のため尽力している人々、また家を失い見知らぬ地で新しい生活を築くことに苦慮している人々に、私はどのように役立つことができるだろうかと、常に考えていた。私にできることは限られているが、私がスケートで演じる姿を見て、人々が自分も東北のために何かできるのではないか、と考えてくれたらと願った。
彼は故郷への感謝の証しとして、日本オリンピック委員会とスケート連盟からもらった金メダルの報奨金600万円を、被災地復興のために寄付した(スポニチ新聞、2月26日)。
羽生が故郷の仙台に戻ったとき、仙台市市長は「あなたは食が細いと聞きましたが、どこからそのような力が湧いてくるのですか」と尋ねた。羽生は、この質問に、スケートが大好きであることと共に、被災して大変困難な状況に遭遇しながら、自分がスケートをつづけられるように支援してくれている多くの人々のことをいつも考えている。これが自分の力の源泉である、と答えている(NHK,2月26日)。
このインタビューの放映を見ていて、私は、彼を本当に動かした力は「愛」であると感じた。それは、彼のスケートへの愛情、そして、家族をはじめ、様々なかたちで彼を支え、応援してくれた人々の愛である。そして、私は、彼の原動力は、確かに神性の起源をもつものであると確信している。その源泉は、神性の愛であるといえるだろう。それは、聖書に語られている「完全な愛は恐れを追い払う」(第1ヨハネ 4:18)、その愛である。今、皆さんが手にしているこの新聞の創設者であるメリー・ベーカー・エディの言葉を借りるならば、それは、「適応するときも、授けるときも、公平で普遍的である」(『科学と健康—付聖書の鍵』、13:1)、その愛である。
3年前、羽生は、フィクションでも見たことがないような恐ろしい体験をした。それは、人々に信じられないほどの悲しみや怒り、そして困苦をもたらした。しかし、彼は、同時に、どんな災害にも、破壊にも、屈しない人々の強さと力を目撃した。
聖書を初め多くの聖典が「人の逆境は神の好機である」(第2コリント 1:8-11参照)ことを示唆している。しかし、だからといって、逆境は、神によって送られてきたものではない。キリスト教科学(クリスチャン・サイエンス)の教科書『科学と健康』によれば、逆境はまた、 神の不変で一貫した善意と愛が、私たちの生活の中で、明確に証明されることを可能にするのである。
私たちを真に支えているのは、神から常に私たちに注がれている愛、大波の勢いにも似た、力強い愛である。それは、私たち一人一人を、加護し、見守り、愛し、防御してくれる愛である(キリスト教科学賛美歌 278番 参照)。キリスト教科学は、神が愛であり、原理であり、私たち一人一人の調和と平和の源であることを、教えてくれる。そして、この愛と原理の映像と似姿である私たち一人一人には、破壊と悲しみを超えたところにある、秩序、力、寛容、そして喜びを、感じる力が備わっている。
ソチのオリンピックで日本が獲得したメダルの数は多くはなかったが、羽生の金メダルは、日本にとって、特に東北の人々にとって、何ものにも勝る、価値あるメダルとなった
東北にきてくださっているボランティアの方々、ありがとうございます。沢山の物資や義援金を送って支えてくださった方々に感謝します。そして、何よりもこの3年間、 東北のために祈ってくださった皆さま、愛を送ってくださった皆さまに、感謝します。