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「選びなさい」

キリスト教科学さきがけ』2019年01月14日号より

The First Church of Christ, Scientist, and Miscellany
『第一科学者キリスト教会と文集』本から転載


メリー・ベーカー・エディが母教会新館の献堂式に贈ったメッセージ「『選びなさい』」の日本語訳は、母教会のキリスト教科学理事会から皆さまへの贈り物です。エディ夫人は、キリスト教科学の発見者、創始者であり、『科学と健康—付聖書の鍵』の著者であり、そしてまた、米国ボストン市所在の母教会、第一科学者キリスト教会の名誉牧師でもあります。本年2014年、世界に広がるキリスト教科学者の教会家族は、この「『選びなさい』」というメッセージ、また、「イエスは  “キリストによる癒し”  の霊的な基盤の上に彼の教会を築き、そして彼の使命を守り通した」(『科学と健康—付聖書の鍵』、p. 136)というエディ夫人の言明を、学び、熟考するように求められています。

「選びなさい」

『第一科学者キリスト教会と文集』、p. 3–6

メリー・ベーカー・エディが、1906年6月10日に行なわれた、科学者キリスト母教会の新館の献堂式に贈ったメッセージ

親愛なる兄弟たちへ:— 真理の神性の力は、真理を実証するために、善行を要求します、そしてそれは人間の願いと一致するばかりではなく、霊的な力と一致することを要求します。聖ヨハネは次のように書いています:「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、の戒めを行う者たちは、さいわいである」1。行いの伴わない信仰の干からびた木の葉は、シオンの荒れ地に散りながら、改革者たちに訴えています:「あなたの行いによってあなたの信仰をみせてください」と。

キリスト教科学は、王族のように一人孤高を保つものではありません;それは物質の法則ではなく、また病人だけを癒すような超自然主義のものでもありません。この科学は、神性のの法則であり、説得力のある意志、誤ることのない推進力、また常に存在する助けです。私たちは、その存在を感じることができます、なぜなら、科学は働き、しかも賢明に働くからです、そして、常に希望、信仰、理解の王道を展開させてくれるからです。それはより高度な批評、より高度な希望であり、そしてそれは人に主に次のような影響を与えます ― つまり、その人の人生にもたらされた善が、誰によって行なわれたとしても、検討してみると、それが真実であることに気づかされるのです。キリスト教科学者は,自分が受けた召集が、からのものであることを確認します。選びなさい!

人は、物質や罪を信用しなくなったとき、真理の精神を見いだします、すると、人は黄金律を自然に実践するようになります;そしてこの法則に従順であると、人は霊的になります、なぜなら、この世が何を求めようと、求めまいと、黄金律を押しとどめることはできないからです。欲情、不正直、罪は、キリスト教科学の生徒の能力を奪います;それらは、人の存在の真理であるキリスト教科学の実践、あるいはそれを効果的に教えることを妨げます。聖書には次のように書かれています:「自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」。この基盤に立つとき、どれだけの人が、道しるべに従っていると言えるでしょうか。私たちが真理に従っているのは、誠実さ、柔和さ、忍耐強さ、霊性をもって従い、女がキリスト教世界と医学の世界の双方に与えた神性ののパン種をもって、聖人も、罪人も、祝福するときのみなのです。

真のキリスト教科学者は、プロテスタントも、カトリックも、神学博士も、医学博士も、敬愛します、— 、善を愛するすべての人を愛します;そしてまた、彼は敵をも愛するのです。そのような人は医学にも、キリスト教にも、反対するのではなく、その双方に役立ち、そして、の力は、人への善意であることを知って、両者が共に栄えることを見いだすでしょう。このようにして、性格の真の本質が展開され、人間的性質のかたくなな部分は消え去り、正直さ、正義感が、キリスト教科学を探究し、見いだす人々の特質となります。

地位や権力の誇りは、「この世の君」であって、リストとは無縁のものです。私たちの偉大な師イエスは言われました:「幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」、— その天国とは、正義が君臨し、善の栄光に輝き、病人を癒し、罪人を救うところです。私のこの希望の高みは、いつまでも続いてゆかなければなりません。に栄光あれ、あなたは、至高の、至近のです。

何であれ、の性質として自然でないもの、実証できる真理でないものは、倫理であれ、哲学であれ、宗教であれ、に属するものではなく、人間の心の中で生じるものです。聖書の中のたとえ話によると、それはアダムの夢であり、人は塵から発生し、女性は男性のあばら骨から発生したものとされています ー つまり、結婚は、合法化された官能的欲望と同じ意味となり、感覚の所産は、自分の兄弟の殺害者であるということになります!

このような人間の夢、この感覚の幻想や惑わしとは全く無関係に、キリスト教科学は、人がの映像、の理念であり、と共存することを示すために到来しています、— それはつまり、がすべてを与え、人はが与えるものすべてを持っているということです。それでは、物質、罪、そして死、人間の誇りや権力、名声あるいは特権は、どのように創造されてきたのでしょうか。モーセの十戒の第一の戒律、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」、および黄金律が、正にキリスト教科学のすべてなのです。これが霊的理想主義そして現実主義であり、それが実現されたのがキリスト教科学者であって、病人を癒し、罪人を救い、墓から勝利を奪うのです。キリスト教科学を実証する霊的理解は、敬虔な科学者が、知られざるをではなく、たとえ少しの理解によってでも、もっと愛しもっと良く献身し続けたいと願うを、崇めることができるようにします。

親愛なる皆さま、この記念すべき献堂式、また聖餐の時に、私は皆さまと同席することができませんが、しかし、私は確かに皆さまと「霊とまこととをもって」共にあり、皆さまの寛大な、忠誠なお心に愛をこめて感謝しております、そして、予言者が告げた言葉を本質的にそのままに、お伝えしたいと思います:引き続き、あなた方が誰に仕えるかということを、よく考え、そして選びなさい。

黄金律を忘れ、罪にふけっていては、に仕えることはできません;そうであっては、病人や罪人を癒す神性のの全能を実証することはできません。人間の意志は人を催眠術にかけ、誤った道に導くかもしれません;しかし、神性の知恵は、決してそのようなことをしません。欺まんにふけっていることは、被告人が、原告の弁護に立って、自分に敵対することが分かっている判決に、自ら賛成の弁論を行なうようなものです。

私たちは二人の主人に兼ね仕えることはできません。私たちは、を最高に愛しているでしょうか。私たちは、正直で、正義を守り、誠実でしょうか。そして、自らに対して忠実でしょうか。「神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」。利己心を無くして、より善き自我のうちに宿るということは、肉欲の罪、人間生活の中の誤り、誘惑者と誘惑、そして天罰のほほえみと欺まんと、永遠に決別することです。私たちがあらゆる形の罪を克服したとき、人々は私たちをののしり、悪意をもって利用するかもしれません、しかしそこで、私たちは喜ぶのです、なぜなら、「天において [わたしたちの] 受ける報いは大きい」からです。

皆さまは、この科学者キリスト母教会に、私たちが祈りを捧げるために入るこの壮麗なる教会堂を、巧みさと、また賢明さをもって用意してくださいました。私はこのことに非常に感銘し、勇気づけられ、皆さまの前進、心の一致、そして愛がこのように証明されたことに、深く感謝しています。科学者キリスト母教会の慎ましい教会堂は、十字架をもって始まりました;そのより壮麗な新館は王冠です。皆さまの指導者の部屋は、今なお、この教会堂に入ってすぐのところにあり、幼子たちと、の口から出る言葉をたたえる証拠となっています。その輝かしい極みの頂点は、心の記念碑となって、人の手の業をはるかに越えた建造物としてそびえ、まさに人々の心の成果が、物質的なものに霊的意義を与えています ー つまり、迅速さ、美しさ、善意の成就です。そして、この教会はこの地上において、自己否定、希望、信仰の形を、最高に予示する唯一つの教会堂です;それは、愛が天上の栄光を一瞬垣間見るところであると、私には思われるのです。


© 2014 The Christian Science Board of Directors キリスト教科学理事会の許可のもと再版される。この記事は、人々と分つため、無料で100部まで複写コピーすることができる、ただし、一切変更してはならない。他の使用目的の許可については、copyright@csps.com にご連絡ください(英語のみ)。聖書からの引用文は、大型聖書(口語訳)を使用、 © 1955、日本聖書協会(日本所在)発行。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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