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過去のことを忘れて

神が私たちの中に表してくださる善と能力に祈りをもって目を向けるとき、私たちの歩みには、より大きな喜びと成功がもたらされます。

キリスト教科学さきがけ』1970年01月 1日号より


わずかな減点や100分の1秒の差が、表彰台に立ってメダルを受賞するか、それとも観客席から授賞式を見守るかを分けることがよくあります。ミラノ・コリティナ・オリンピックがイタリアで開催されている中、選手たちが感動的なパフォーマンスへと向かう過程で、失敗や減点を経て前進していく姿は大きな感動を与えてくれます。 

真に成功している選手は、自らの失敗から学び、また失敗も手放すことを実践しています。そうすることで、失敗がその後の努力の妨げとならないようにしているのです。オリンピック5回出場の偉大なテニス選手ロジャー・フェデラーは、出場した1526回のシングルの試合の約80%に勝利を収めました。しかし、そのような好成績にもかかわらず、最近依頼されて出席した卒業式のスピーチで、試合中のポイントのうち勝っているのはわずか54%に過ぎないと語りました。つまり、彼の努力の46%が失敗に終わっているということです。

彼は、失敗にとらわれないことを学びました。そして、「このような考え方はとても重要です。なぜなら、次のポイント、そしてまたその次のポイントへと、強さと明確さ、そして集中力を持って完全に向き合うことができるようになるからです。」と語りました。

私たちは、オリンピック選手ではなくても、最善を尽くし、過ちにとらわれないように努力することができます。そして、それはどう考えるかという訓練ではなく、祈りに根ざした力強い実践なのです。この実践が、使徒パウロの言葉によく表れています。「兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです(ピリピ人への手紙3章13-14節, 新改訳)。

「神が上へ召してくださる」とは、の創造物として、わたしたち一人ひとりに与えられている役割を果たすことだと考えられます。キリスト教科学生命と教えているように、は力強く慈しみに満ちた本質を表す存在として、わたしたちを創造されました。それこそが、私たちの存在の本当の目的です。キリスト・イエスは、このことをよく理解しており、「わたしのは今に至るまで働いておられます。ですから、わたしも働くのです」と述べています。(ヨハネによる福音書5:17)

は、いつか人間的に完全になろうとしている不完全な人としてわたしたちを見ていません。は、わたしたちがすでにの本質のみを反映していることをご存知です。の目にはわたしたちは、霊的で、完全であり、深く愛されているものとして見ておられます。がわたしたちについて語られるように、わたしたちも自分たちのことをそう語るべきなのです。

わたしたちはから与えられた霊的な完全性と、愛に満ちた善を見いだしていく過程で、途中で間違いを犯すこともあるでしょう。しかし、そうした過ちにとらわれてしまうと、次の瞬間に、明確さと集中力をもって前進しようとする献身にかけてしまうかもしれません。

10代の頃、私は悪気はなかったものの「君にあまり期待はしていない」と言ったアスレチックコーチの言葉を過って信じてしまいました。その後の約6ヶ月間、その厳しい宣告を、まるで首に石をぶら下げているかのように背負い続けていました。私の成績はコーチの予想通りになり、自分のことが好きになれなくなってしまいました。

このままでは続けていけないと感じていました。ある日、友達がキリスト教科学の教科書『科学と健康付聖書の鍵』からある印象的な文を紹介してくれました。著者のメリー・ベーカー・エディは、「は、人のうちに、無限の理念を現わし、この理念は自らを永久に発展させてゆく、それは無限の基礎から広がり、ますます高く登ってゆく」と述べています (p. 258)。

その時から、が私のうちに何を表しているのかを見ることだけに心を向けるようになり、そうすることによって、重い石は消えていきました。過ちから学びつつ、同時にの栄光のために、自分が「無限の基礎から広がり、ますます高く登ってゆく」ように創造されていることを、更に深く理解していく喜びを楽しんでいくようになりました。そしてまもなく、私の成績は、わたしの想像を絶するものとなっていきました。

その時から、が私のうちに何を表しているのかを見ることだけに心を向けるようになるにつれて、あの重い石は消えていきました。私は過ちから学びつつ、同時に、の栄光のために、自分が「無限の基盤から広がり、ますます高く昇っていく」ように創造されていることを、さらに深く理解していくことを喜びをもって楽しみにするようになりました。そしてまもなく、私のパフォーマンスは、自分でも想像していた以上のものとなっていきました。

わたしたち一人ひとりは、がなさっていること、そしてがどのようなお方であるかを表すために存在しています。である神性のは絶対に完全な存在であり、わたしたちは皆、そのの自己表現の中に含まれています。『科学と健康―聖書への鍵』には、「全能で無限のが、すべてを作ったのであり、全てを包んでいる」(p. 206)と述べられています。

わたしたち一人ひとりは、がなさっていること、そしてがどのようなお方であるかを表すために存在しています。である神性のは絶対に完全であり、わたしたちは皆、その心の自己表現の中に含まれています。

科学と健康―聖書への鍵』には、「全能で無限のはすべてを創り、すべてを含んでいる。このは誤りを犯して、あとからそれを正すようなことはしない」と述べられています(p.206)。

アスレチックに限らず、あらゆることにおいて、今、思いを生産的な方向へ向けることが大切です。昨日の過ちを今日に支配させる必要はありません。過ちを通して、わたしたちはより強くなり、自分をさらに愛することができるのです。を反映する私たちの力は、何ものも奪われるこはありません。「主にふさわしくあゆみ、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざにおいて実を結び…神の栄光の力にしたがって、あらゆる力をもって強められる」(コロサイ人への手紙1章10節、11節)。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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