まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのもの(あなたが必要とする他のすべてのもの)は、すべて添えて与えられるであろう。
― マタイ 6:33
15歳の夏、私は「家事手伝い」の仕事をしようと決めた。学校の友だちの多くが、ニューヨークの裕福な家族が保養地で夏を過ごすとき、住み込みで家事手伝いをしてきた。夏の間に何か面白い、もしかすると華やかな経験ができるかもしれないと思い、私たちはみな申し込んだ。友人たちは次々と仕事先が決まっていった。ところが、私には申し出がなかった。
私はひどくがっかりした。
母は、キリスト教科学の実践士に相談したらどうかと言った。私は、そうした。
実践士にこの問題について話すと、彼女はキリスト教科学讃美歌の148番(Anna L. Waring)を勉強してご覧なさい、と言った.この讃美歌は「天井の愛に宿りて」、という言葉で始まり、「神いづこにわれ導くとも、いかなる不足も、われを引き返させじ」と続く。
実践士はまた、キリスト教科学の日曜学校で学んでいた幾つかの霊的事実を思い出させてくれた。私は霊的理念であって、神に愛され、すべての意味で完全であること、そしてまた、私の本当の居場所は両親の家でもなく、どこかの別荘でもなく、神の国であること。そして、そこにあって、私は、どんなときにも、必要な善をすべて与えられていると信頼していることができること、などである。
私は心から信頼していた。実際、実践士の言葉はとても明解で、論理的に思われ、この訪問ののち、心配は消えた。夏休みの計画のことが頭をよぎると、私は神の国に住んでいて、神から来る善から決して切り離されることがないことを、自分自身に静かに確認していた、ー 仕事が見つかっても、見つからなくても、である。
とうとう6月になり、学校が休みに入る2週間前になった。電話が鳴り、驚いたことに、夏のお手伝いさんをまだ探している家族があって、私と会いたいというのだ。友だちはみな懐疑的で、「6月になってまだ人探ししているようでは、あまり立派な家族とは思われない」などと言った。
しかし、私は会ってみることにした。次の月曜日、学校が終わってから、彼らに会うため、母は私をマンハッタンまで車で連れて行ってくれた。ものすごく暑い日で、渋滞もひどかった。
私たちは、やっと時間に間に合って着いた。高級アパートの入り口には2人のドアマンが立っていた。私たちが会う約束をしている家族の名前を告げると、頭を横に振って、「ご家族は、今日は出かけておられます」と言った。
私たちが、約束に間違いはないはずだというと、彼らは、ロビーに座ってお待ちになってもよいですよ、と言ってくれた。家族は現れそうもなかったが、私たちは1時間ほど待つことにした。
「今年の夏は仕事が見つからないかもしれないわね」と母が腰かけながら言った。「それでいいの?」
実践士と話をしてから、私は絶対に確信していたので、この質問に驚いた。
「ママ、実践士が言ってくれたことを話したでしょう。私は神の国に住んでいて、何であれ、私にとって正しいことが、与えられるのよ」と答えた。
「もちろんそうね!」と、母は同意した。それから私たちは一時間ほど生き生きした会話を楽しみ、結局ドアマンに別れを告げその場を去った。
その晩、家族から電話がかかってきた。彼らは約束の日を間違えていて、大変申し訳ないと詫びてきた。私たちは別の日に会うことになり、簡単な面接ののち、私を雇いたいと言ってくれた。
その仕事は最高の宝物になった。すばらしい家族だった。私は彼らととても楽しい海辺の夏を過ごし、私たちは友人関係を築き、それが秋まで続いて、私にはすてきなボーナスとなった。
ところで、この話には面白い裏話がある。その家族と親しくなってから、なぜお手伝いさんを雇うのがあれほど遅くなったのかと聞いてみた。実は彼らは何人もの女の子と面接していたが、ビッタリの子を探し続けていたのだった。
「その女の子はあなたですと言ったのは、ドアマンだったのですよ」と、彼らは言い、「あの日、あなたに会い損ねて、帰宅したところ、ドアマンの一人が、『まさにぴったりのお嬢さんが今日ここにおられました』と言ったのです」、と話してくれた。
彼らが彼になぜそう思うのかを尋ねると、「そのお嬢さんとお母さんは今年一番の暑い日に町まで車でこられ、ご家族がお留守でも腹を立てることもありませんでした。お2人がロビーで話している様子から、お2人は本当に一緒にいることを楽しんでおられることが分かりました。本当の愛を感じました。そして、『このお嬢さんだ!』と私は思いました」と言ったとのことである。
つまり、私が思ってもいないときに、私は、実際に面接を受けていたのである。もし、私が霊的確信で満たされていなかったなら、あの試練の午後、ドアマンが目にした愛と心の落ち着きを表現できていただろうかと、思わずにはいられない。
私は、大人になって、この経験をもっとはっきりと理解できるようになった。当時、私の信仰は絶対的なもので、また子供っぽいものでもあった。しかし、今になって、実践士の言葉は、私が自分の存在について、単純ながら深淵な真理を、垣間見る助けとなったことが分かるのである。メリー・ベーカー・エディは『科学と健康―付聖書の鍵』の中で次のように書いている:「永遠の真理は、人間が誤りから学びとったと思われるものを滅ぼす、すると神の子である人の真の生存が明るみに出てくる」(pp. 288-289)。
そして、正にそれが私が実践士と話した日に起こったのである。私は、神の子である自分の真の身分をよりはっきりと理解することができて、その理解が、自分が人間として受ける善の可能性は限りあるものだという嘘を、滅ぼすことを助けてくれたのである。そして、私は神の恵みがすでに自分のものであることを実感することができた。この癒しについて私が特にすばらしいと思うのは、仕事が決まる前に、この絶対的な確信を得ていたことである。讃美歌148番の歌詞が、このこと全体を要約している:「されど神に包まれしわれ、動じることあらじ」。