私が10代で運転し始めたばかりのある日、父のステーションワゴンに弟を助手席に乗せて運転していた。交差点で左折したときに、小型トラックが反対方向からやって来た。そして、全速力のまま私たちの車に衝突した。その衝撃の瞬間に、「主の祈り」の初めの2行が私の口から飛び出した:「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイ 6:10)。その一瞬に、私たちを取り囲む神の国の確実さ、神の安全と善意の意志の確実さが、私の考えを満たした。
弟と私は、その大破した車からなんとか出てきた。弟が車から出てきたとき、壊れた窓カラスが彼の全身に砕け散り、沢山の切り傷をつくり、彼が衝撃をまともに受けていることが分かった。それでも、彼は道路を横切って、公衆電話で会社にいる父に電話すると言った。私たちが父の車を運転していたので、父には、その場にすぐ来られる交通手段がなかった。後に、父は、どんな状態か気が気でなく、心配のあまり気も狂わんばかりだった、と私に話した。「私は彼らの父である。その場にいなければならない!」と彼は思ったそうだ。すると、静かな内なる声が、次のように知らせてくれた、「いや違う、わたしが彼らの父である。そして、わたしはまさに彼らとともにある」(出エジプト 3:14 参照)。これが父の心を静め、私たちが安全で大丈夫であることを確信させてくれた。すぐに、父は交通手段を見つけ、私たちのところに来てくれた。つづいて、母も自分の職場から飛んで来てくれた。
その頃には、救急隊員が到着し、優しく私たちの必要を見極め、世話してくれていた。衝突の激しさから考えれば、私たちは沢山の傷を負いながらも、みな表面的な傷であり、それ以上の怪我でないことに、彼らは率直に驚いていた。小型トラックの所有者も、同様にわずかな怪我ですんだ。救急隊員は、今晩から明日までは、状態を見守るようにと言って、弟と私を両親に委ねてくれた。
私たちは家に着くと、キリスト教科学実践士に電話をかけ、完全な癒しにいたるよう、私たちと一緒に祈って欲しいと頼んだ。家族みなで、静かに祈りながら夜を過ごした。私は、そのとき、弟と自分がすべてに渡ってしっかり守られたことに、心からの畏敬の念を覚えたことを思い出す。そしてまた、あのとき私は自分の意識に浮かんだ「主の祈り」の2行を、心の中でしっかり握っていたことを覚えている。それにより、愛、安寧、平和という神の法則が、完全に働いているという確信が、私の意識を満たしていた。この法則の前で、私は、神が私たちを完全に加護してくださっていることを、疑うことはできなかった。
翌朝、私は、午前4時までに仕事に就いていなければならなかった。目覚めて、身支度にとりかかったとき、すべての傷が消えていることに気付いた。すっかり無くなっていた。かさぶたも、傷跡も無かった。弟の体にも、ただ一つの傷跡も残っていなかった。私は、もちろん、両親を起こした。そして、私たちはみな、真の父の完全な力強い加護を示すこの証拠に、深く感謝した。
米国、テキサス州、リチャードソン