2007年の末頃、小さな傷のような腫れ物が私の頬にできた。キリスト教科学者ではない家族の者たちは、この症状を見て心配し、医者に見せたらどうかと勧めた。私は、小さいときからキリスト教科学に頼り、神の癒しの力を目の当たりにしてきたので、キリスト教科学の祈りのみに頼っていける、と説明して丁寧に断った。しかしながら、キリスト教科学の実践士と共に祈っていたが、傷は直ぐには癒されなかった。これが、私にとって聖書とメリー・ベーカー・エディの著書などを掘り下げて勉強し、祈る良い機会となった。
腫れ物が大きくなってきたので、私は絆創こうで覆っていたが、今度は、商店の店員や見知らぬ人に、あなたの顔はどうしたのかと聞かれるようになった。親切心からくるこれらの質問に、どう答えたらよいか分からなくなり、人目が気になって、人に見られるのを避けるようになった。
勉強と祈りを続けるうちに、自分が神の霊的な理念であり、神の法則のみに基づいて造られていて、それ以外の何ものにも基づかないという確信が増した。聖書の中で、創世記の第1章と第2章において、全く異なる創造の概念が示されている。第1章では、私たちは神により完全で完璧に造られていることが示され、第2章では、私たちは「土のちり」で造られ、創造者から離れた心を持つものとされている。幸いなことに、私は、キリスト教科学の勉強を通して、2番目の物語は寓話であり、人間は不完全であって誤った影響を受けやすいという、創造についての間違った観念を表していることを学んでいる。
生命はすべて霊的であり、完全であることを理解しようと祈っているとき、もし、自分が本当に、ちり(土)から造られていたのであれば、私の体に何かが根を下ろし、この体に何かが「育つ」ことがあり得るのかもしれない、という考えが浮かんだ。しかし、私の存在は神性なるもので構成されているのであり、すべて神なるものを映し出していることを理解していたので、自分が物質的なものではあり得ないことをはっきりと認識した。何にせよ、自分の本質とは違うもの、つまり神、霊に似ないものが、私の真の霊的存在に取り付くことはできないということに気がついた。
私は、更に、聖書のヨブ記の次の言葉を使って祈った:「もしあなたが心を正しくするならば、神に向かって手を伸べるであろう。もしあなたの手に不義があるなら、それを遠く去れ、あなたの天幕に悪を住まわせてはならない。そうすれば、あなたは恥じることなく顔をあげることができ、堅く立って、恐れることはない」(ヨブ11:13-15)。
状態が悪化しているように感じ、他に危険と思われる症状も現れたが、私は常に自分の霊的本性と存在に喜びを感じているように、心がけていた。そしてついに、ある日、シャワーを浴びているとき、この誤りを主張しているものを濡らさないように、大事に守っていることを、止めるべきだという考えが頭に浮かんだ。私は、顔をすっかり水に濡らし、石けんで洗った。外出するとき以外は、その腫れ物を何かで覆うことも止めた。すると、誤りがどんな形で現れようとも、それを恐れたり、心配したりすることから解放されて、人が何か言うのではないかと心配することもなく、出かけられるようになった。調和と完全さ以外には、何も「見る」べきものは無いことを、心の中で固守していた。
それでも、この頑固な症状は無くならず、痛みが続いた。数ヶ月後、キリスト教科学者である友人の家に、一週間ほど泊まりに行った。このあいだ、私たちは、人間的な歴史を捨てること、そして、神の理念である私たちにとって、自分の歴史は、過去においても、そして常に、完全に霊的であることを、認識することの重要さについて話し合った。私たちがすべきことはただ、エディ夫人がRetrospection and Introspection の中で教えているように、物質の記録を消し去ること、つまり、「人間の歴史は訂正される必要があり、そうすることで物質の記録は消し去られる」ことに、私たちは同意した(p. 22)。
この同じ週に、腫れ物がくずれ、はがれ落ち始めた、そして、その下から桃色を帯びたきれいな皮膚が現れた。家族の皆は、この完全な癒しを目の当たりにして、神の真理の力が実証されたことを、一緒に喜んでくれた。
その後、ある人から、この腫れ物を取り除いた医者の名前を教えて欲しいと言われ、私は、神、すなわち神性の科学が、唯一の「医者」であったと話した。そして、この質問者から、私と同じような状態に対して祈ってほしいと頼まれ、祈っていると、3日後には、その症状が彼女の顔から消えていた。
米国、カリフォルニア州、ラグーナ ヒルズ