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神を受け入れない心のために祈る

キリスト教科学さきがけ』2013年01月 1日号より

Christian Science Sentinel, October 1, 2012


今日、世界中のあらゆる地域において、特定の人々を狙ったものであれ、不特定多数を狙った事件であれ、暴力に関する報道が後を絶ちません。例え、非常に難しいことのように思われたにしても、他人に害を加えることを考えている人々、あるいは既に危害を加えてしまった過去を乗り越えて、暴力を根絶する方法を考える用意のある人々に、助けの手を差し伸べることは可能なのです。

他人に危害を加えることを止めたいと思っている人が取る第一歩は、自分の思考がどちらを向き、どのような思考様式になっているかを、もっと自覚することです。暴力は、行為となって現れる前に、思考されています。それは、いわゆる怒り、利己心、妬みなどを含む思考であって、油を注げば、人を害する、また破壊的な行為に広がっていくものです。一方、もっとの方に向いている思考は、そうした怒りやそれに伴う暴力を、ちゃんと平和のうちに迂回させてくれるのです。自分の思考の品質を見張っていることが、極めて重要です! 時には、自分の人生が多くの葛藤に見舞われ、善なる思考と悪なる思考が戦っていると感じられることも、あるかもしれません。しかし、そこで勝者となるのは、常に、自分が最も注意を払い、従って油を注いだ方の考えであることに、気付いたことはありませんか?

私たちは、自分の意識を実験室と考え、そこでの力を証明し、経験する機会にしてみてはいかがでしょう。私たちは、この実験室で、毎瞬、新たな実験をしているのです。もし、私たちがそこで、暴力沙汰を引き起こすかもしれない思考に、油を注ぐという実験をしたならば、私たちの実験(そして人生全般)は、実りのない、ただいらいらする、破壊的なものとなるでしょう。しかし、どのような考えを心に抱き、油を注ぐかを決めるのは、常に自分自身なのです。更には、私たちはいつでも、放棄すべき思考には、油を注ぐことを差し控えることもできるのです。

私たちが真に望み、培うことを本気で願っているのは、の純粋で天使のような思考であって、真理であり、です。「天使は、からくるもろもろの清い考えであり、… 真理の翼をもっている」(『科学と健康―付聖書の鍵』、p. 298)、とメリー・ベーカー・エディは書いています。言い換えれば、こうした天使のメッセージとは、が、毎瞬、私たち一人一人に与え、私たちを助けてくれる考えなのです。これら天使のメッセージは、があなた自身や他の人々に、ごく自然に表現させている純粋さや善意を表しています。天使のメッセージがこのように力強いものであることに、人々はその昔から気付いていました。エレミヤ書には、「は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」(29:11)とあります。

過去にどんなことをしたとしても、また、過去にどんなにひどい仕打ちを受けたにしても、平和をもたらす天使のメッセージは、常にあなたを養い続けていますから、これらのメッセージを、あなたが自らの力で獲得する必要はありません。はあなたを愛している、というそれだけの理由で、天使のメッセージはあなたに届くのです。実際、があなたと交信しているとき、常に、の愛が感じられるのです。ちょっと、試してみませんか。から送られてくる天使のメッセージに、静かに心を開くのです。自分の心のなかでのメッセージが聞こえ、そして同時に、愛されていることが感じられるでしょう。の平安を感じながら、短気を起していることなど不可能です。そのどちらか一方なのです。これら2者は共存できません。そして、を愛し、の子たちを愛することにより、過去の暴力的な思考様式を、平和と善意の思考様式に、置き換えることができます。

の子であるあなたが、他人に攻撃を仕掛ける誘惑を、思考の中に抱くことはあり得ません。ただし、思考を識別するには、注意を払っている必要があります。しばらくのあいだ、自分が何を考えているのかに耳を傾けていると、怒りに満ちた思いがしょっちゅう心の中をよぎることに驚かされるかもしれません。の天使からのメッセージに耳を傾けている最中にさえ、こうした醜い思いがあることに、気付くこともあり得ましょう。そのような思考は、たとえ10分たりとも、意識の中に生かしておくには値しないものです。の考えのみが実在するのですから、暴力的な考えはあなたの真の考えではないのです。そうした考えはのものではないと、一度見抜いてしまえば、もはや自分の中にそういう思考が宿ることはないでしょう。

ここで私に思い浮かぶのが聖書の中のサウロの話です。彼は人々に危害を加えるような性癖から方向転換し、その性癖に終止符を打った人です。後に、彼は自ら、「ユダヤ教を信じていたころのわたしの行動については、あなたがたはすでによく聞いている。すなわち、わたしは激しくの教会を迫害し、また荒しまわっていた」(ガラテヤ 1:13) と書いています。

イエスの十字架上の死、復活、そして昇天ののち、イエスに従っていた多くの人々が各地を巡って、イエスによって語られたの善意、愛、力について語りました。サウロはその人々の行動に非常に憤り、ステパノというキリスト教徒が石で打ち殺される際には、自分の住んでいた町の指導者について現場に行っていました。サウロはステパノの石打ちを目撃し、石打ちを行っている人の衣を持っていました(使徒行伝 7:58 参照)。サウロはキリスト教徒に災難をもたらし、家々に押し入って、男や女を引きずり出し、つぎつぎに獄に渡し、教会を荒し回っていたのです(使徒行伝 8:3 参照)。

しかし、サウロはいつまでも暴力的人間ではありませんでした。サウロの残虐さと怒りに満ちた思考は、の力により洗い清められたのです。ある日、サウロが道を歩いているとき、まばゆい光をみました。そして、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(使徒行伝 9:4)、という声を聞いたのです。

これがサウロにとって、人生の転換点となりました。は自分が憎しみと暴力を捨て去ることを望んでおられるのだと、サウロは洞察したのです。これが彼の新たな出発点となりました。この経験のあと、サウロは全く目が見えなくなり、友人らに手を引かれて残りの旅程を続けました。彼の向かう町で、は、アナニヤという人に、サウロの手助けをするよう命じました。キリスト教徒であるアナニヤは、恐れました。というのも、彼は、サウロが人々に暴力を働いている噂をいろいろ耳にしていたからです。しかし、アナニヤはに従いました、そして、サウロの視力はたちまち回復しました。そのとき以来、他人に多大の苦痛と暴力を働いてきたサウロは、完全に別人の立派な人となり、キリスト者パウロとなったのです(使徒行伝 9:1-20 参照)。

パウロは各地を旅して人々を救済しました。あるとき、彼がルステラの町で、人々にの話をしていた際に、一度も歩いたことのない人の姿を目にしました。パウロはその人を見つめて、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」(使徒行伝 14:10)と、大声で言いました。その瞬間、その人は癒され、躍り上がって歩き出しました。

パウロが生きた、これら対照的な人生について考えてみてください! サウロであったときの彼は、人々に多大の危害を加えた経歴の持ち主でした、ところが今や、その彼がの力と法則により人々を癒しているのです。後に、彼はこう述べています:「キリスト・イエスにある命の御霊の法則は、罪と死との法則からあなた(わたし)を解放したからである」(ローマ 8:2)。

、すなわち神性なるの法則は、かつて2000年の昔にパウロに対して働いたのと同様に、現在も人々を暴力という罪から解放し続けています。に心を向け、の愛のみが自分の思考と人生に影響するのであることを、全身全霊をもって自分の心に受け入れることは、可能です。実際、それ以外のことは、望まないでしょう。自分自身にしても、他人にしても、憎む理由はないのですから。に正されることの慰めを楽しみましょう。に向かって次のように語って、大いに助けられている人々を、私は繰り返し見てきました:「ごめんなさい。正しくない考えを持ったり、あんな行動に出てしまって、ごめんなさい。私が本当に悪かったと思っていることを示すために、恐怖心や自己中心的な思考や行動を捨てて、あなたが、私を見るままに、知るままに、心のすべてをもって、受け入れます」と。

聖書は、私たちがこのような変貌を遂げる手助けになるような激励の言葉を与えてくれます:「わたしは喜んであなたにいけにえをささげます。主よ、わたしはみ名に感謝します。これはよい事だからです」(詩篇 54:6)。あなたのへの愛は、怒りや、怒りに伴う暴力的な行動様式を犠牲にして、聖なるものの美しさ、平和、善意、愛を、心に抱くとき、はっきりと示されます。愛とは選択であり、しかも、日々選択してゆかねばならないものです。

「霊的清さを得るためには、霊的清さを願うことが必然であることを私たちは知っている;しかし、もし何にもまして霊的清さを望むなら、わたしたちはそのために全てを犠牲にするばずである。霊的清さに向かって、ただ一つの有効な道を堅実に歩んで行くためには、わたしたちは進んでこの犠牲を払わなければならない」(『科学と健康』、p. 11)と、メリー・ベーカー・エディは書いています。

霊的清さという言葉は、愛情、善意、慈しみ、そしてまた、に仕えたいと真に願う思考の特性を含むものです。そして、霊感に満ちたこのような導きは、それに従う力が無ければ、与えられることはありません。これは重要な事実であり、しばしば思い起こしてみるべきものです。は、私たちができないことを私たちに求めることはない、ということです。まず、進んで、憎しみや暴力的な行為を、犠牲にするところから始めるのです。これは、心の決断です。そして、天使のメッセージ、が絶え間なく注ぎ続けている思考によって、私たち自身の意識を満たすならば、あらゆる程度の暴力に終止符を打つことができます。このような天使の思考は、他人を支配したいという性癖から脱却する方法を示してくれます。また、癒しと幸福が密接に繋がって、すべて治めることを可能にしてくれます。

私たちは誰でもパウロが示す指図に学び、自分の思考を実験室にして、の力を証明し経験するため、あらゆる機会を楽しむことができます。毎時、毎瞬が、新しい機会なのです。今、この瞬間に、があなたに届ける天使の思考を受け止めることができますように! その天使の思考に油を注ぎ、大いに成功することを見守りましょう。あなたもそれと共に、成功することでしょう。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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