Skip to main content Skip to search Skip to header Skip to footer

「おねがいします。ありがとう」の祈り 

キリスト教科学さきがけ』2022年08月16日号より


私の娘が幼い頃、お友達が泊まりにきたことがありました。お友達のバービーは母親から「お願いします」「ありがとうございました」を同時に言うように教育されていました。そして、バービーはまさにそれを実行していました。

彼女は何かを頼むたびに、「お願いします、ありがとうございます 」と言うのです。「ミルクをお願いします。ありがとうございます」「クッキーをお願いします。ありがとうございます」のように。

ついに娘は我慢できなくなって言いました、「バービー、『お願いします 』と 『ありがとう 』は同時に言わないの。欲しい時に 「お願いします 」と言って、もらったら 『ありがとう 』って言うのよ!」。しかし、バービーは断固として「ママは 『お願いします 』と 『ありがとうございます 』を一緒に言いなさいと言ったの」と言いきりました。

 このちょっとしたやりとりが、私にはとても印象的でした。私はこの1、2週間、痛みと闘いながら、キリスト教科学の祈りを熱心にしていたのです。しかし、一向に癒しへの進展はありませんでした。このとき私は、ある意味でバービーの言うとおりだと思いました。少なくとも科学的な祈りにおいては、何かが欲しいときに「お願いします」と言い、それが手に入ったら「ありがとうございます」と言うのではなく、最初に「ありがとうございます」を入れることが理想なのです。

 イエスがラザロの墓の前に立ったとき、「よ、どうか私の友を癒してください "と言って、ラザロが現れるまで待ってから 「父よ、ありがとうございました 」と言ったのではありません。彼はまず、「よ、あなたが私の願いを聞いてくださったことに感謝します 」と言ったのです1。

 イエスは、群衆がお腹をすかせて座っていたとき、「神よ、彼らに何か食べるものをください」とは言いませんでした。「イエスは七つのパンを取り、感謝してこれを裂き、弟子たちに渡し、弟子たちはそれを群衆に配った. . . . 彼らは満たされた」2とあります。

 私は、存在の真理に感謝するために、癒しの 「釘あと」を必要としないことに気づきました。(訳者注:ヨハネ20: 24, 25参照)そして、癒されたときに「ありがとう」と言うのではなく、感謝の気持ちから祈りを始めることで、痛みを追い払ったのです。

 なぜ、神への感謝が癒しに重要な要素なのでしょうか?感謝は人間の感覚を苦しみや恐れから、神の癒しの存在につなげる、一種のスイッチのような役割を果たします。聖書は、神は愛であり、神性の愛は自分のしていることを知っていると教えています。は意識があり、また知的です。それは無限のであり、すべての真の意識を構成し、すべての空間をと知恵と正義で満たしています。神性のは普遍です。この聖霊は、すべての人のであり、すべての人の不滅のです。神性のは、穏やかであると同時に活力にみなぎり、優しくあると同時に生命力があり、愛される大切な者であると同時に活発で精力的です。

 人類はこの分かりやすく、素晴らしい事実を知らないために苦しむのです。しかし、神性のは最高の原理であり、キリスト・イエスはそれを証明するために生きたのです。彼の示した模範は、啓示、霊的直観、理解によって人間の無知と誤りを一掃する神の原理の力強さを証明しました。

 イエスの実践の根本的な法則は、キリスト教科学の発見者であり創始者であるメリー・ベーカー・エディによる『科学と健康-付聖書の鍵』に示されています。この本は、キリスト教科学の教科書であり、無知を払いのける知識を与えてくれます。神性の真理は真の力であり、誤った信念を消し去る重要な法則であり、この真理が認められ、理解される必要があります。

 キリスト教科学の祈りは、に何かを求める嘆願というよりも、むしろ、がすでに行ってくださったことを肯定し、認め、理解することです。の仕事は完了しているのです。感謝は、この事実を認識する最も純粋な形です。それは、目に見えない善の存在を喜びをもって祝うこと、つまり確信をもってそれを認めることで、喜びの香りを放つのです。

 感謝は、肯定の縮図です。癒しが現れる前に、このような感謝の気持ちが現れると、癒しの触媒となります。人の心が、の全能の善、の遍在する配慮を確信したとき、喜びを感じるのです。この真の存在の承認は、信仰と確信の歌となり癒すのです。それは、神格と人間性の一致を示すものです。聖パウロは、「事あるごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなた方の求めるところをに申し上げるがよい」3  と書いています。

 神性のの存在が、理解され、実践されると、人間の心、精神、身体を、鋭い効果と最終的な治癒力をもって癒すのである。エディ夫人は、「思考を霊的に導くものは何でも、心と体に恩恵をもたらす」と書いている。私たちは、神性科学の肯定することを理解し、迷信を捨て、キリストに従って真理を示す必要がある」4。

 は物質ではないし、の創造物は物質でもない。物質とは、実質の一種ではなく、ここに実際に存在するものに対する誤った感覚や推定です。無知で物質的な感覚には見えない霊的な実在の存在、すなわちの宇宙は、知的な神性のの完全性をすべて反映しています。実在とは、今、ここにあるものです。実在は完全なる善である。無知が限界、不正、苦痛を嘆くまさにその場に、迷信と堅苦しさの霧に隠れて、とその考え、完全な霊的な人、完全な霊的宇宙があるのです。祈りのうちに、私たちは幻想を抱く物質的な感覚に目を閉ざし、その不調和を否定します。私たちはに目を開き、喜びの確信をもって、は私たちの生命で、今ここにあり、完全で完璧で永久的なものであり、私たちは神性のの瞬時の、自然の、個々の反映であると断言します!

 が存在し、が持っているすべてのものは、の反映として私たち一人一人のものなのです。私たちは、たとえ五感が「感謝することなど何もない」と厳しく叫んだとしても、感謝の力を行使する必要があります。本当に感謝すべきことはあるのです。。感謝すべき実在は常にあるのです。完全な「ここ」と「今」が「お願いします。ありがとう」と書かれた戸を開ける私たちを待っているのです。

  1. ヨハネ11: 41. 2. マルコ 8: 6, 8. 3.ピリピ 4: 6. 4. 科学と健康、p. 149.

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

『さきがけ』について、その使命について、もっと知る