誰もが、いつかどこかで必ず自分に悪いことが起こるものだとという考えは、広く受け入れられており、ある意味では確信となっていると言ってもよいかもしれません。こうしたものはしばしば「必要悪」と呼ばれます。これを真実だと信じれば、無力感を抱くのも無理はありません。しかしわたしは、どのような形の悪であっても、それが必要であることは決してないと学びました。
わたしは少なくとも15年の間、毎冬一度はインフルエンザのような症状にかかるのが常でした。この病気を防ぐために最も一般的に勧められている予防接種に頼る代わりに、私は別の種類の薬を選び、 ついには病気にかかる傾向そのものさえ取り除きました。その結果、私は謙虚に(それを可能にしているのは私自身ではないからですが)、ここ10年間、インフルエンザのような病気にかかっていないということができます。私が頼った薬とは、神、すなわち神性なる心です。
どのような困難に直面したときも、神に頼るのは私にとって自然なことでしたので、インフルエンザの症状が現れるたびに祈りました。そして、私はいつも楽にはなったものの、病気になる傾向そのものから実際に癒されることができるとは気づいていませんでした。そのため、毎年同じ境遇に直面していました。メリー・ベーカー・エディの著書『科学と健康』に書いてある次の一節が、この状況を説明しています。「病が消え失せると、また再発するかもしれないのに、わたしたちは癒されたと思う;しかし、病気になりやすい状態が取り除かれるまでは、完全に癒されたのではない。」(p 230 : 23-25)
より深刻な問題に直面するまで、毎年繰り返されるこの苦痛を受け入れる必要がないことに気づきませんでした。ある時、胸の痛みと衰弱に襲われました。この経験の中で、父であり母である神に真に向き合うことを学びました。神は「あなたのすべての病をいや」(詩篇103:3)すお方です。私は神の映像としての自分のあり方について多くの教訓を得ました。特に、自分が神の霊的な表現として生きていること、そして何ものも私を神性な命から引き離すことはできないということを学びました。霊こそが唯一の現実であり、神に似ていないものはすべて無力で非現実的なもの、つまり幻想であり偽りである―として拒絶できると理解しました。痛みや衰弱から解放され、また誰も本来どんな病気にもかかるものではないと理解しました。神の子は、神が知っているものの中にのみ存在し、またそれのみ持つことができます。神は私たちの存在の源です。神は霊であり、物質的存在ではありません。したがって、わたしたち一人ひとり、実際には、物質的ではなく霊的な存在なのです。
翌年の冬のある晩、寝室を歩いているとき、インフルエンザの兆候を感じました。ため息をつきかけて「ああ、いやだ!」と思った瞬間、すぐに「抵抗して立ち上がれ!」という思いが起こりました。これは『科学と健康』の別の一節から思い出したものです。「病の初期でも、進行した段階においても、盲目的に、またおとなしく従う代わりに、それらに対して反逆を起こしなさい。心の力で除外できない痛みが、一つでも侵入し得る、という信念を追放しなさい、この方法で、あなたは痛みが体に広がるのを防ぐことができる。」 (p 391: 5-8)
私は実際に抵抗し、神の映像としての完全なる神との断たれることのない関係を確信しました。それで症状はなくなりました。正に終わったのです。病は発症せず、その後も再発していません。そして私は、それが再び起こるかもしれないという潜在的な恐怖も抱えていません。
片耳の聴力低下に悩んでいた頃、私は『科学と健康』の中の病気にかかりやすい傾向を取り除くことについての一節を初めて知りました。周囲の騒音が大きかったり、よく聞こえる方の耳が話し手に向いていなかったりすると、会話の大部分を聞き逃してしまいました。この状況に苛立ちを感じ、心から癒しを祈っていました。この問題は数年にわたって時々繰り返されていたものでした。そのたびに祈ると、やがて楽になっていました。そして、一つ一つの癒しの経験がもたらした霊的な洞察に感謝していました。しかし『科学と健康』の中の前述の一節を読んだ時、完全に癒されるためには、聴力を失う可能性への信念を取り除かなければならないことに気づいたのです。
神の守りから離されるという思いを払いのけなさい
これまで私は、いつまたこの問題と苦しめられることになるか分からないという恐れの中で生きていました。どんな状況でも、神から与えられた聞く権利を奪うことはできないと理解しなければなりませんでした。聖書が告げるように、「聞く耳と見る目とは、ともに主が造られたものである。」(箴言20:12)
神が聞く耳を造られたのなら、他のどんな力も聞く力を阻止することはできないでしょう。神はご自身の創造物を深く愛しておられるので、人が周囲で起きている良いことを見逃すような状態に陥らせることは決してしないはずです。神の映像と似姿としての私の完全性を基盤に再び祈り、私の聴力は物質的な状態に左右されない霊的な神の賜物だと真に理解したとき、恐怖は薄れ不調もなくなりました。つまり、神が授けたものを失うことはできないと理解することで、聴力を失う可能性や傾向そのものを取り除いたのです。
この体験は四年半前に起こりました。これらの事実を確信し、今もこれからも常に真実であるものを見失わないためには、常に注意深くあることが求められます。しかし今、私は深い感謝と喜びをもって、恐れずに水の中にも雲の上にも行きます。耳が詰まり聴力が低下する恐れが取り除かれたと確信しているからです。
私たち一人ひとりが神の理念であり、神の愛の中で常に守られ、慈しみ、支えられていると気づくとき、それが示されないという恐れはありえません。神は失敗しないのですから、どうして神の映像である私たちが失敗できるのでしょうか。それは、私たちが常に思い描いた場所にたどり着くという意味ではありません。しかし、神に頼り、失敗する可能性があるという誤った信念を進んで拒みさえすれば、私たちは常に良いもの、神の創造の真実の姿にたどり着くのです。成功は状況に依存しません。それは神の愛に支配されることで達成され、まさに毎日毎瞬、利用可能な最高の力によるのです。
ある時、期末試験のために、延々と続く動物の学名のリストを覚えなければなりませんでした。私はずっと、こういう情報を覚えるのが苦手だと思い込んでいました。恐怖が高まる中、勉強を中断して賛美歌を歌うグループに加わりました。
歌われた賛美歌の一つがキリスト教科学賛美歌集の421番でした。神を賛美する歌を歌ううちに、すべての恐れが消え去ってゆきました。神への愛に満ち溢れ、神が私を愛しておられることを深く感じたとき、神がご自身の子たちを失敗にさらすような存在として創造することは絶対にありえないと確信しました。翌朝、試験会場に入ると、答えが自然と浮かんでくるのを感じました。私は高得点を取ることができました。私の意識の中で神の善と、その慈愛に満ちた全能の御手を深く確信したことで、失敗するかもしれないという信念が取り除かれたのです。
神は完全なる善であり、神の子である私たちに善のみを備えておられます。悪が存在する、あるいは力を持っているという考えが誘惑として浮かんだなら、反逆をおこしなさい。神の慈しみから切り離される可能性を信じることなど決して許さず、病むこと、失敗すること、いかなる原因による苦しみを受ける可能性さえも取り除きなさい。神はあなたを愛しています! 神はあなたを霊的に、神の映像として創造し、創造されたものすべてを良しとしたのです。
