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あなたの体とあなたの教会 

キリスト教科学さきがけ』2025年09月12日号より


私たちは体への注目がますます高まっている時代に生きています。本、テレビ番組、新聞、雑誌などが体について何らかの形で取り上げられています。

私たちは、体の重さ、外見、感触、何を食べるべきか、どのように運動すべきか、どのように着飾るべきか、どのように清潔に保つべきか、どのようにマッサージすべきか、どのように装飾すべきか、そしてどのように満足させるべきか、といったことに非常に興味を持ち、さらには魅了されてしまいます。いつか、私たちは、自分の体の召使となっていたことを恥ずかしく思うようになるでしょう。

キリスト教科学は、決して「体を忘れて、もっと霊的なことに心を向けなさい」と説くものではありません。実際、キリスト教科学は、体について多くの貴重なことを教えています。キリスト教でいう科学は、私たちに体を無視するよう求めているのではなく、まったく別の視点から体について考えるよう、私たちに挑んでいるのです。この科学は、体とは私たちにとって何なのかという、私たちの認識全体を回復し、再生し、変革し、再生させるような、深い再考を促すものです。

より霊的、あるいは神を中心とした自己観は、体を単なる物質の集合体として見る見方を超越させるものです。それは、私たちの存在は基本的に感覚的なものであるという仮定に抵抗するのに役立ちます。体が私たちを支配し、コントロールし、病気にし、苦痛を与え、反抗し、裏切ると信じられている考えに立ち向かう能力を与えてくれます。キリスト教科学はまた、祈りを通して、体についてもっと霊的に考えられるようになる方法を教えてくれます。知的な心の回復力が、正しい行動、調和、適切な機能、力、活力を体にもたしてくれます。

この体についてどのように考えるべきかという新しい方向性への要点は、教会についてどのように考えるかという独自の視点に関係しています。変化し、最終的には腐敗する物質である肉体よりもはるかに重要で永続的なものが私たちのアイデンティティです。そして、エディ夫人が教会の霊的な性質に与えている意味を理解すると、このことはより明らかになっていきます。彼女はそれを、「真理と愛の構造;神性原理の上に据えられ、そこから前進するものすべて」と表現しています。1

彼女は、私たちが通常、教会を定義する要素として考える、集団的で利他的な活動についても忘れず論じています。そして、私たちの多くが参加している通常の教会活動は、人類にとって極めて重要です。しかし、エディ夫人が教会について述べていることは、街角にある建物に集まる人々の集団以上のものを指しています。教会の霊的な意味が、より身近な、つまり、体と同じくらい身近な意味を持っていることを深く考えたことはありますか?「真理と愛の構造」が暗示する秩序と調和に、自分の人生観をより一致させようという思いは、自分の体の秩序と調和の表現とは無関係ではありません。

聖書では「宮」という言葉がよく使われます。エディ夫人は、この用語は時には「体」を表す言葉でもあることを示し、またこの用語の持つ意味と洞察を説明しています。2使徒パウロも宮の概念と個人のアイデンティティとの関連性を指摘し、「あなたがたは、神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」という重要な質問を投げかけています。3

「神の宮」であることの真の意味を理解し始めた私たちには、どのような祝福が待ち受けているのでしょうか?私たちは、まったく新しい種類の聖域、つまり、いつでも深く霊的な基盤の上に神を礼拝する機会を発見するのです。パウロは、「自分のからだをもって、(そして、神である霊によって)神の栄光をあらわしなさい。」4 と助言しています。歪んだ考え方では、物質主義は私たちの体を、霊の美しさよりも劣ったものを崇拝するような宮に変えてしまいます。肉体への絶え間ない執着は、霊性ではなく、物質や肉体を崇拝することにつながりやすいのです。

体を宮と関連づける場合、私たちが話している「住まい」とは一体どのようなものなのでしょうか。体は神聖さが表現される場所であるべきです。それは、神聖さが当たり前である場所、純潔と正義が守られる場所、霊的な誠実さと尊厳のある場所、無垢と徳を大切にする場所。つまり、私たちの存在意識、アイデンティティは、神を私たちの心と人生に迎え入れるという神聖な特権を与えられた一種の宮と考えることができるのです。実際、私たちの生活は、神の性質の存在を物語るべきものなのです。

しかし、私たちの身体の概念が本質的に制限されたものである限り、無限への崇拝を効果的に行うことはできません。そして、それがまさに物質の本質であり存在の制限された死すべき視点の輪郭です。キリスト・イエスの生涯は、私たちの焦点を物質性から霊性へと移します。イエスの生涯は、私たちに無限の霊的な質 ー喜び、平和、善 の真の体現を認識し、発展させるよう呼びかけています。そして、この認識を行動に移すことで、私たちが現在抱いている身体に対する見方が変化し、解放され、救われるのです。

聖書には、神が私たちの間に住まわれ、私たちの間を歩き、私たちの間に存在されているという証拠や記述が数多くあります。出エジプト記にある、神が幕屋を聖別すると述べた約束を考えてみてください。「わたしはイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神となるであろう。」5

一見、これは人々の集団の中で、神は地理的にそのどこかに存在している、という意味にとれるかもしれません。個人と個人の間の空間を占めている、と。しかし、もちろん、それは、神の臨在を理解しようとする、非常に人間的で限定的な考え方です。神は、本当に私たちのただ中にいます。しかし、神は完全な霊であり、私たちの存在意識のまさにその中に表現されているのです。そして、それこそが身体の本質であるべき姿なのではないでしょうか?真の体、真のアイデンティティとは、生命、真理、愛を現す本質の具現化です。それは、神の臨在を意識的に現わしたものです。

体は苦しむ場所ではありません。恐怖や怒りを抱える場所でもありません。苦悩や不調和の場所でもありません。神を礼拝するための考えの宮として、神が私たちのただ中で表現されることの意味を理解し始めるための手段を提供してくれるのです。

イエスは、敵が宮(体)を破壊しようと、3 日間でそれを建て直すと約束しました。もちろん、彼らは、イエスが石とモルタルでできたエルサレムの宮(神殿)のことを言っているのだと思いました。体を破壊不可能な神の宮として考えることは、彼らには理解できなかったのです。しかし、キリスト・イエスは、彼らがこの宮を破壊することはできないことを理解していました。彼らは、神に敬意を表し、生命、真理、愛を表現するイエスの能力を破壊することはできなかったのです。

私たち一人ひとりが、この神の宮が意味することについて、より真の意味を求め成長することができます。私たちの生活が、霊に始まる純粋な性質によって日々新しくされるにつれて、私たちは神を賛美する個々の宮が不滅であるということが、より明確にわかるようになります。聖ヨハネは、実在の視野の中で、制限のある宮は存在しないことを見ました。この実践的な意味が、物理的なものが神を崇拝する真の基礎ではないことを理解するのに役立ちます。そのうえで、私たちは秩序ある、構造化された、神聖な目的のある方法で神を賛美しますが、常に霊感に満ちたものならば、私たちの賛美は自発的なものであってもいいのです。私たちの生き方が、ますます神を表わすものであるべきなのです。

ペテロの第二の手紙には、「わたしがこの幕屋にいる間、あなたがたに思い起させて、奮い立たせることが適当と思う。それは、わたしたちの主イエス・キリストもわたしに示して下さったように、わたしのこの幕屋を脱ぎ去る時が間近であることを知っているからである。」と書かれています。6

確かに、私たちはこの物質的なアイデンティティを脱ぎ捨てなければなりません。しかし、それは、生ける神の宮をまとう範囲でのみ行うべきです。物質的な感覚では侵すことのできない、本質的で継続的な方法で、私たちはますます神を礼拝するようになってきています。

私たちには、体と教会について学ぶべきことがたくさんあります。神についてより深く学ぶほど、それらについてもより深く理解できるようになります。そして、私たちの生活の中でより霊性を高めて、神を日々礼拝する実践を重ねるほど、神についてより深く理解できるようになります。そうすれば、体にも、そして、あなたの教会にも、より調和がもたらされることでしょう。

 


1  科学と健康, p. 583 

2  科学と健康, p. 595
3 コリント人への第一の手紙 3:16

4 コリント人への第一の手紙6: 20

5 出エジプト記 29: 45

6 ペテロの第二の手紙 1: 13, 14

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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