中学1年生のとき、 じっと静かにしているなど性格的にできない子どもだった。映画館や教会で落ちつかず動き回っていると、両親に「マーク、じっと座っていなさい!」と小声で言われるのが常だった。でも、できる限り静かにしていようとしても、たいていの場合、すぐに、両親に言われたことをすっかり忘れていた。
その年の暮れ、インフルエンザのような症状がでたとき、じっとしていることがさらに難しかった。両親は私を愛情深く看病してくれ、また自分の経験から、神に頼ることで安心と癒しが得られることは分かっていた。しかし、数日の間、私の祈りは落ち着きのないものだった。
私と一緒に祈ってくれたキリスト教科学の実践士は、イエスが弟子たちと嵐の中、船に乗っていたとき、「静まれ、黙れ」と祈ったことについて話してくれた(マルコ4:39)。以前、キリスト教科学の日曜学校でこの話を聞いたとき、私はイエスが嵐の海に向かって単純に 「静まれ!」と言ったのだと思っていた。
しかし今回は違う見方ができた。イエスは海を鎮めようと海と戦っていたのではなかった。また、イエスは危険な状況のもとでも、穏やかな気持ちになろうとがむしゃらに努力していたのでもなかった。イエスが静けさを、神の力強い揺るがない性質として肯定しており、それはわたしたちの内に備わっていることを伝えていると思えた。
クリスチャン・サイエンス・モニター紙の創始者であるメリー・ベーカー・エディは、「不動的」静けさという概念について「人の思考を高め神の真理を伝える、最良の霊的キリストの形は、不動の力、静けさ、力強さであり、この霊的理想が自分のものになったとき、それは人の行動の模範となる」と説明している。
(『Retrospection and Introspection』* 93ページ)
私は、神の普遍性に支えられた「不動の力、静けさ、そして力強さ」を、自分の思考と行動の模範とすることを選んだ。キリスト教科学は、神の本性は完全で善であり、神の被造物として、つまり神性の霊の子共たちとして、私たちの本質は神の本質を反映している。この重要な真理、すなわちすべての存在の霊的存在をより明確に見極めるため、私たちは皆、本来、静けさをあらわす能力を持っている。この静けさ、静寂こそが、確かな祈りなのです。
このような「静けさ」は、受動性や無活動と何ら関係ない。祈りに満ちた静けさとは、不活発や緩慢な状態ではなく、神の存在と善に対する積極的でゆるぎない認識である。
「静けさ」についてこのように考えることにインスピレーションを受け、私は神性なる静けさのもつ力が自分の中にもあることを悟った。1、2時間すると、インフルエンザのすべての症状から解放され、いつもの幸せで健康な自分に戻っていた。
この癒しの効果はそれだけにとどまらなかった。それ以来、学校のテストを受けるとき、スポーツの試合中、どんな時でも、一日のどの時点でも、「不動な力、静けさ、力強さ」を建設的に培うことが可能になり、それらをより頻繁に体験するようになった。
イエスはこのような経験の偉大な手本である。たとえば、聖書には、イエスがある町を去ろうとしたとき、街道沿いに座って物乞いをしていた盲人が、繰り返しイエスに呼びかける、その声を聞いたときのことが記されている。
「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」とその男は叫んでいた。「イエスは立ち止まって、『彼を呼べ』と命じられた」と聖書は述べている(マルコ10:46-52参照)。目の見えなかったその男の視力は、その場で回復した。
イエスがその場で「立ち止まって」何をしておられたかは想像できませんが、イエスの静けさは、神に耳を傾ける祈りの時間であったと考えられるのではないだろうか。
神の完全な性質には権威ある「静けさ」がある。神は不変で常に存在しているので、外部の力、恐れ、影響と対立する必要はない。実際、神は完全な善であり、他のいかなる力を創造することも知ることも絶対にできない。なぜなら聖書が「愛」と呼ぶ神が唯一の真の力であり存在だからである。
動揺し、冷静に考えることができないと感じるときでさえ、私たちは思考を高め、神性なる真理をもたらす聖なる「静けさ」に心を開くことができる。聖書には「わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます」(詩篇94:19)と記されている。神の子である私たちは、神のすべてを表すように創られているので、謙虚な祈りの静けさの中に、神の喜びにあふれる善を感じとり、私たちは自然にその善と一つになる。
そして、次の美しい確かな約束をより具体的に体験するのである。
「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい」(出エジプト記14:13)。
この記事はクリスチャン・サイエンス・モニター2024年7月16日号に掲載されました。
* Retrospection and Introspection (「回顧と内省」は和訳されていません)