あなたの周りに、孤独を感じている人、愛情を求めている人、心身の健康を必要とし悩んでいる人はいませんか。私も人生のある時期そのように感じていました。人は何の為に生きているのだろう? 私は素晴らしい家族に恵まれていたにもかかわらず、生きる目的が見い出せず、死にたいと思ったこともありました。そんな私を救ってくれたのは、上の娘からの日曜学校を彼女のために探して参加したいというシンプルなリクエストでした。
当時、私はどんな宗教にも興味がなく、特に「人は皆、生まれながらにして罪人である」という教えのあるキリスト教には興味がありませんでした。しかし、クリスチャン・サイエンス(キリスト教科学)の日曜学校は、まったく異なる考え方を持っていることを知りました。それは、人の起源が死すべきもの、物質的なもの、罪深いものであるという、一般的に受け入れられている解釈から自分を守る方法を子どもたちに教えているのです。キリスト教科学について学ぶにつれ、その教えが私たちのアイデンティティの霊的基盤を明らかにし、それによって私たちは皆、限界を感じたり、価値がないと思ったり、孤立したりすることから自分を守ることができるのだということがわかりました。
娘二人を、キリスト教科学の日曜学校に連れて行くようになってからは、日曜礼拝にも出席するようになりました。また、毎週開かれる証しの会にも参加し、聖書やキリスト教科学の教科書である『科学と健康-付聖書の鍵』(メリー・ベーカー・エディ著)に親しむようになったのです。この二冊の本に書かれている神性なる真理に触れ、それに浸っているうちに、医師に診断された心臓の病気が癒されました。
私は、自分が神、霊に創造れたものであることを知り、自分の存在に深い敬意を抱くようになりました。真の親である神との関係こそが、私の存在の基盤であり、理由であり、私が生きたい原理であると考えるようになりました。また、私の人生を終わらせることを正当化するようなあらゆる理屈が無力であることも分かりました。自分自身が祝福されるためだけでなく、周囲の人々、特に私が抱いていたような暗い考えと戦っている人々を祝福するために生きて行きたいと思いました。
欲望や恐怖から解放されて生きるという人間の基本的な権利を脅かし、損なうような悲劇的な事件がこの世界で数多く起きているのを見るたびに、「この世界に欠けているものは何だろう」と自分自身に問いかけました。その答えは単純に聞こえるかもしれませんが、私たちはお互いの価値を認め合うという、非常に基本的な道徳的法則を見失っているのではないでしょうか?
私自身、自分の価値観がガラッと180度変わったのは、私の真の親は神であり、神の愛であるとはっきり感じた時です。神はどの宗派や宗教にも縛られることなく、無限に広がる完全な霊的宇宙において、すべての人の真の存在の父であり母です。私は、自分自身をある時点に生まれた日本人女性としてではなく、自分よりもはるかに大きな何かの一部であると考えるようになりました。私は神の霊的理念であり、神の無限の、常に存在する全ての存在の中に含まれているのです。
私が生きているこの現実を把握するために、日々、霊、神に立ち返り、霊的直観によって自分自身と他者の真価を見極めるよう勧められています。この実践を通して、自己中心的、かつ個人的な愛ではなく、神性の愛への永遠の信頼を育んでいます。
こんにち、多くの人が教会で批判されたり、歓迎されないと感じたりしています。多くの人が、神を信じることは認めていても、組織化された宗教に参加することに興味を失っているという調査結果があるのも不思議ではありません。
他人を裁き、愛を欠くことは、クリスチャンの行為ではありません。エディ夫人は、自分の発見をChristian Science (クリスチャン・サイエンス)と名づけるに当たって、それが「慈しみに満ち、役に立ち、霊的なもの」であることを意味しました(『回顧と内省』25頁)。この科学は、キリスト・イエスが教え、生き、示したことを説明し、それによって病人を癒し、人として価値が無いと感じていた人々を変革させました。これが、個人と世界に健康、平和、調和をもたらし、今ももたらす、霊感に満ちた慈愛、親切、霊性に満ちた、オリジナルの究極のキリスト教だったのです。
罪深い者、孤立した者、病める者とみなされた人々に、イエスは真理とはどのようなものか、つまり制限と恐れからの解放を示されたのです。イエスは、人種、宗教的背景、性別、あるいは今日の私たちを分断するようなあらゆるものに関係なく、私たちの父、すなわちすべての人の父を人々に思い出させることによって、これを実現したのです。
キリスト・イエスは、創世記の第1章に記録されている天地創造の物語に基づいて、私たちの真のアイデンティティーを思い出させるために来ました。私たちは皆、神の子どもであり、神の似姿と映像として造られたのです(26-28節参照)。その神が与えてくださった祈り「主の祈り」は、神を「私たち(皆)の父」と呼ぶことから始まり(マタイ6:9)、神が身近で普遍的な存在であることを示しています。このことは、この祈りが、イエスの直系の弟子や、後にキリスト教徒と呼ばれるようになる人々のためだけの祈りでないことを意味しています。むしろ、この祈りは、すべての人が、父であり母である神との関係を確認し、経験し、かけがえのない権利を持って生まれてくることを確認させる祈りです。
エディ夫人は次のように書いています。「唯一壮大な完全なるものの、活発な役割を果たす一部分として、善意は人を普遍なる善と同一であるとみなします。それ故、当教会の会員一人ひとりは、「私は何ものなのだろうか?」というしばしば繰り返えされる問いかけに立ち上がり、「私は、真理、健康、幸福を分かち合うことができ、そして、これが私の救いの岩であり、また、私の存在する理由なのです」という、科学的な答へたどり着くことでしょう。(The First Church of Christ, Scientist, and Miscellany』165ページ)。
上記の言葉は、私にとって大変意味深いものとなりました。自分の霊的起源を理解し始めると、真の価値観を感じ始め、世の中の闇や恐怖を思考から払拭することができるようになるのです。この霊的な価値こそ、娘の「日曜学校を探してほしい」というリクエストに隠された宝石だったのです。私は次第に、イエスが約束された「私たちを自由にする」真理を知りつつあるのだと信じ始めました(ヨハネ8:32参照)。
神に学び知る、無条件の愛、喜び、信頼を、私たちは神の反映として、他の人に表現することができるのです。私たち一人ひとり、誰もが神、霊の子として、唯一無二の美しい目的と神から授かった賜物を授かっています。そして、子供が毎日何か新しいものに出会える喜びに満ちあふれているように、私たち一人ひとりの価値が尊重される新しい世界へ、人類が前進していると期待することができるのです。