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神が送った目撃証言者:潔白という真実

『キリスト教科学さきがけ』2021年10月 6日号より

クリスチャン・サイエンス・センチネル 2012年10月15日号より


ある朝の出来事でした。私は自家用車で、南フロリダの広い公道の、一番左端の車線を運転していました。信号が青だったので、そのまま交差点を通過しようとしたその時、突然、右前方から左折してきた中型SUVが目の前に現れ、私の車と衝突しました。その結果、私の車はほぼ廃車状態になってしまいました。私はいくつかのアザ以外怪我もなく、無事でした。

すぐに、相手の車から数人の男性がおりてきました。そのうちの二人が私のそばに現れ、私の無事を確認しました。私は後部座席に置いてあったカバンの中にある携帯電話を取るよう彼らに頼み、すぐにキリスト教科学の実践士に電話を入れ、祈りによるサポートを依頼しました。落ち着いてはいましたが、やはり動揺していました。実践士はいつものように、明るく私の電話に応対してくれました。そしてすぐに、メリー・ベーカー・エディ著『科学と健康付聖書の鍵』にある次の文章を思い出すように言いました。「事故については、、すなわち不滅の心は知らないのである」(424ページ)。その実践士の声はいつもよりも更に明るく、かつ静かな喜びに満ちた声だったことを覚えています。そして彼女は「ここでは何も変わっていませんよ」と肯定的に、深い霊的確信をもって言ってくれました。それは、不変な善であるにおいては、調和そのものが完全に不変であり、乱れることが無く、私自身を支える本質の調和も変わらず、神自らがその調和を保っている、ということでした。

先方の車に乗っていた男性たちは、市の消防署員たちであることが判明しました。そのうち、警察官たちが現場に到着しました。車に乗っていた消防署員のうち2名の男性が、私を自宅に送りましょうと言ってくれました。帰宅の車中で、事故にあった車を運転していたのは彼らの上司で、全てうまく処理されるから大丈夫だよ、と言ってくれたのです。

ところが、1時間ほどして、現場にいた警察官の一人が、私の自宅に来て、交通違反切符を私に発行しました。そして、私に非があったと言いました。緊急車両の行く道を妨げてはいけないという常識は私ももちろん知っていましたが、彼らはサイレンも鳴らさず、赤信号を左折してきていたのです。

その警察官は、「関係ないさ、どちらにしても君が悪かったんだ」と言い続けました。私はそれまでの運転歴の中で、交通違反切符などもらったことはなく、ただびっくりして茫然と立ちつくすばかりでした。

それからの日々、車は何とか修理可能ということで、修理代の必要性も満たされました。私が教えていた大学の学部長が大変ご親切に、彼女の2台目の車を、私の車の修理中、通勤用に貸して下さると申し出てくださったのです。これには大きな愛を感じました。経済的にも必要が満たされ、一安心ではありました。しかし、心がざわつき、交通違反切符を受けたことに関して、それ以上に、何か祈らなければ、という気持ちに駆られました。自分がやっていない何かに対して責任と非を問われ、しかも、それに関して、自分は一体何が出来るのか、という不安でした。

職場では同僚や大学生の教え子たちが心配していました。そのうち、一人のアメリカ人の同僚は、「アメリカではね、こういう表現があるんだよ。『システム(組織・制度の明文化されていないやり方)』を打ち破ることはできない。だから、罰金払うか、オンラインの交通クラスをとるかして、どちらにしても、おしまいにしちゃったら?」と言いました。

ほかの友人たちは、交通事故専門の弁護士を雇って、市の交通裁判所で交通裁判官に法廷尋問してもらうことが出来ることを教えてくれました。この方法については、最初億劫に感じました。「あなたは何様なの、一体何ができると思っているの?外国の地で、女性ひとりで、何が出来ると思ってるの?」と脅かし諦めさせるような考えも、何度も浮かびました。しかし、それまでにキリスト教科学を通して、学び理解し実践してきたのは、「箱」のような限界に閉じ込めようとするものはから来たものではなく、そのような考え方・やり方には、真の権威は何もないということでした。神性な方法で対応したいと思いました。どうしたらいいのでしょうか?そうです、からの静かなメッセージに耳と心を傾け、祈りを通してに頼ろうと決めたのです。

あの日、電話を掛けたキリスト教科学実践士に、祈りをとおしてこの一連のことに対応していきたいと伝えました。すると、自然に恐れや不安がなくなり、ある日、交通弁護士に電話をかけ、裁判所での証人尋問を頼むことができました。こうすることにより、私は、の意志に従いたかったし、の義を求めたかったのです。なぜなら、の法そしてその完全なる作用・実行・結果を、さらに知り、理解し実践したいという願いを、強く抱いていたからです。

「ごり押しのエゴ」や、勝手な思い込みでは進みたくないとも思っていました。の目で正しく公正なことを行い、経験したいと思ったのです。祈り続け、もし私自身の考えや行動で訂正する必要のあることがあれば、がそれを明らかにしてくれるだろうし、私もそれに従おうと願いました。

実にそれは、のみと共に歩む道でした。時に、疑いや恐れで頭がいっぱいになりそうなこともありました。しかし、神ご自身が私に、必要な勇気や考えの明快さを与え、そして関係者の方々にも同じ勇気が与えていることを、祈りを通して確信していました。

証人尋問までの数ヶ月間、2つのことが私の祈りを導いていました。1つ目は、キリスト教科学の実践士がシェアしてくれた、「あの日、全ての人が、正しい、いるべき場所にそれぞれ居た」ということです。それは、調和と真理から成るの国では、全てのの理念(それは私たち、の子、一人一人)が、いつも必ず正しくいるべき場所にいるということです。そこには、衝突や事故というものは存在しえません。

あの日、実践士が言ってくれた『科学と健康』からの言葉、すなわち(霊的視点においては、もともと)「事故はなかった」という霊的真理を抱き続け、その真実に基盤を置き続けました。『科学と健康』の中でエディ夫人は次のように述べています;「. . . この過程を逆にしなさい。けがをしていない、と宣言して、その理由を理解しなさい、すると良い結果が、あなたの物理現象に対する不信、そして神性の形而上学に対する忠実さ、聖書が宣言している通り神がすべてであるという確信などに正比例して、生まれるであろう」(397ページ;下線部強調は、本記事の著者によるもの)。祈りの中でのこの逆転(reversal)は、神・真理の立場から実在を見ることによって、可能になったのです。

祈りそして、神・真理の立場から実在を見ることによって、あの日に対する理解・考えを逆転することが出来たのです。

聖書の中のヘブル人への手紙にある聖句、「聖霊もまた、わたしたちに証を(する)」(10章15節)も大きな支えになりました。聖霊とは、神性科学そのものであり、それが私の目撃証人なのです。これは非常に重要なポイントでした。その神性科学に沿って霊的に理解し、あの日の本当に起きていたことを示す真理が私を慰めてくれました。『科学と健康』には、「物質的感覚と呼ばれているものは、事物についての、滅びる一時的な感覚しか報じることができない、ところが霊的感覚は、真理のみを証言する。物質的感覚にとって、その感覚がキリスト教科学によって正されるまでは、非実在が実在なのである」(298ページ)と書かれてあります。祈り続けて霊的に理解できたのは、あの日、一人一人が正しい場所にいて「事故に遭う」ということはなかった、ということでした。

祈りを導いてくれた2つ目のことは、以前にもまして消防員、警察官、連邦局職員などの法執行機関で勤務する方々に心から感謝することによって、祈りが深くなっていったということです。彼らの無私でたゆまぬご尽力は、法治国家において、神性な統治を見守り保護する仕事そのものです。彼らの家族の皆さんのことも思い、より大きな感謝をもって祈りました。そして、の法則が私たちの日常でも行使されていることに今まで以上に感謝しました。

市の交通裁判所での証人尋問の日がやってきました。実践士は祈り続けてくれていました。私は裁判所への道中、高みへ引き上げられた感覚を覚えました。まるでの翼にでも乗っているかのようでした。

裁判所に到着したとき、交通弁護士が待っていました。挨拶してくれた後、部屋の反対側に4人の人たちがいることを教えてくれました。そのうち2人は私に交通違反切符をもってきた人も含む警察官たちでした。そして、もう2人は見知らぬ男性と女性でした。交通弁護士は、言いました; 「今この時点で、裁判に勝つ自信がないなら、2階のカウンターで罰金を払って、この尋問をキャンセルしてもいいんですよ」と言いました。

私は弁護士に言いました:「静かに祈りたいので、少しだけ時間をください」。

この時点で、私が唯一頼ることが出来たのはでした。誰かに電話をかけられる場所ではありませんでした。への祈りに心を向けた時、静かに沸き上がった感謝の気持ちに、優しく洗われたような感覚があったのを覚えています。ここ数カ月間、キリスト教科学実践士と共に祈った日々、そしてその期間学んだ真理への感謝でした。キリスト教科学に静かな揺るぎない自信と信頼を感じて、心の準備は出来ました。そして、交通弁護士のもとへ戻ったとき、素晴らしいことが起こったのです!先ほど警察官たちと一緒に立っていた、見知らぬ男性と女性の2人が、かなり深刻な顔で私たちのところにやってきました。そして、男性の方が交通弁護士に尋ねました;「あなたは、このお嬢さんの弁護士ですか?」

弁護士がそうだと答えると、その男性は、「このお嬢さんには、全く非がありません」と言いました。横に立っていた女性もうなづいていました。私のために、証言をしにその日わざわざ裁判所まできたと言いました。彼らはおそらく、あの日現場で目撃者として、警察に名前と連絡先を知らせておいたのでしょう。そして法的尋問が行われるという連絡が入ったのだと思います。

この二人の話を聞いて、さらに新しい事実が分かりました。この男性の車は、青信号で直進していた私の車から、2車線分、離れた車線にいたのです。この男性によると、あの日、私の車と男性の車の間に大きな貨物トラックが走っていたのです。消防署のSUVが物凄いスピードで交差点に入ってきた時、私の車の角度からは、絶対に見えない状態にあったと言いました。

その男性は私の弁護士に断言しました;「このお嬢さんに、あのSUVが見えた可能性なんて、全くのゼロです」。さらに男性の隣にいた女性は、こう続けました:「あの日、私の車は交差点の向こう側にいて、あのSUVがスピードを上げて、しかもサイレンなしで、赤信号の交差点を左折しようとしたのを目撃したのです」と。

交通弁護士は二人の話を聞き終え、そして私たちに着席するように言いました。まもなく私の名前が最初に呼ばれました。弁護士が最初に説明をし、そして警察官2人と目撃証人2人の証言が続きました。聖書のコリント人への第2の手紙の中にある聖句、「すべての事がらは、ふたりか三人の証人の証言によって確定する」(13章1節)を目の当たりにしているようでした。

関係者全員が話し終えたその10分後、私の名前が再度呼ばれました。判決は「Not Guilty(無罪です)」でした。満員の部屋にいた人たちは、ヤッターと喜び拍手してくれました。私は涙ぐんでいました。正直に、真実を語るため、わざわざ裁判所に来て証してくださった、二人の見知らぬ男性と女性。彼らは、私の無垢・無実に関する正直な証を行うため、わざわざ時間をとって、裁判所まで足を運んでくださったのです。

この二人の目撃証人の車は、まさに正しい場所にあったのでした。もちろん、彼らがそこにいたことを、私は知る由もなく、お二人が私の法廷尋問にいらっしゃることも全く知りませんでした。

ただ私が分かっているのは、それまでの数カ月、キリスト教科学実践士と共に祈り続けた日々と、その期間中、はっきりと意識の中で垣間見た霊的な真理の数々が、これらの聖霊の働きをもって、正しい公正な結果をもたらしたということです。「すべての人が、正しい、いるべき場所にいたのだ」と祈りを通して霊的に深く知り、認めたことは、とても重要でした。

私はこの結果に、大変大きな喜びと幸せを感じました。すぐに、キリスト教科学実践士に電話して感謝の言葉を述べました。そして、大学の自分の研究室に戻り、同僚たちに法廷尋問の結果ををシェアしました。、ある人はこう言いました;「ワオ!何が起こったのかわかってる?普通は諦めるしかないといわれる、いわゆるシステム(組織・制度の明文化されていないやり方)を、あなたは打破したのよ!。」

ただ、私にとっては、の法則の神性なる体系が、全ての人を司っていることを目撃した結果だったのです。の子供たちは、誰も、の法の外にはみ出すことは、出来ないからです。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、「さきがけ」の定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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