まだ外は真っ暗で、部屋の明かりをつける日の出前のことでした。部屋の隅から突然、歌声が聞こえてきたのです。オーリーという名の、150グラムにも満たないオウム科のオカメインコが、声高らかにメロディーを奏でているではありませんか。おかしなことに、オーリーは布で覆われた鳥かごの中にいたのです。普段、鳥は暗闇では鳴かないというのが通説なのですが。
このことは、私に、実に素晴らしいことを教えてくれました。時に私たちは、暗闇の中にいるように感じることがあります。それは、布で覆われた鳥かごのように重く行き場のない気持ちです。でもそんな時でも、オーリーのように、私たちは喜びをあらわすことができるのです。
喜びとは、私たちの霊的本体の一部をあらわすものです。神が私たちを造られたのですから、私たちは一人ひとり、そのような不変の喜びを、常に備えています。キリスト教科学の勉強を通して学ぶように、私たちはそれぞれ、神の反映なのですから、神の名前の一つである魂、のすべての側面を保持しているのです。私たちの神である魂を反映する感覚は、いつでも喜びをもって歌い、そして高みに上ることができます。それを、抑えつけることはできません。
キリスト・イエスは、「その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」と言いました。時には、喜びを感じることができないと思うことがあるかもしれません。でも、喜びを霊的な特性としてみた場合、それはいつでも私たちと共にあります。ですから、どんな状況でも喜びを表す方法が見つかり展開してくるに違いありません。
あの日、日の出前のまだ暗闇の中でオーリーを歌わせたのは、何だったのでしょうかそれは、オーリーの本質にとって、それが当たり前で自然のことだからです。同じように、私たちにも、いつでも喜びを表現できる能力が備わっているのです、何故なら神ご自身が私たちを、霊的に、そう創造なさったのですから。