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暗く嵐が吹き荒れる時だと思いますか? キリストの光を輝かせましょう。

キリスト教科学さきがけ』2020年09月21日号より

Christian Science Sentinel, June 29, 2020


メリー・ベーカー・エディが、The Christian Science Monitor (クリスチャン・サイエンス・モニター紙)の創刊号の初刷りを手渡された日、1908年11月25日は、暗い霧の立ち込める日でした。彼女の家の誰かが、その天気について話しました。そのときエディ夫人が即座に発した言葉は、彼女が物質的感覚の伝える事象を超えたところを見据えていたことを示唆しています。「そうです。でも、それは感覚によるものに過ぎません。私たちは、誤りの反対が真実であることを知っています。今日は、真に、すべての日のなかでももっとも光り輝く日なのです。今日、この日、私たちの日刊新聞が人類を明るく照らすために、世に出てゆくのです」(ヘザー・ボーゲル・フレデリック、 Life at 400 Beacon Street, p. 329)。 

その4ヶ月前の7月の末、エディ夫人は、キリスト教科学理事会に、日刊新聞を発行するようにと文書で要請したのでした。そして、彼女はまた、キリスト教科学出版協会の評議員にも、次のような書簡を送っています。「遅れることのないようにしてください。その(新聞発行の)大目的が、今、直ちに発行されることを要求しているからです」(アーウィン・D・キャナム著Commitment to Freedom: The Story of The Christian Science Monitor, p. 23)。 

理事会にとって、この任務はきっと法外に大きなものに思われたことでしょう。彼らは、完成したばかりのキリスト教科学出版協会の建物を拡張し、資金を調達し、キリスト教科学者である報道記者たちを探し出して雇用し、設備を購入し備え付け、新しい事業を樹立するために必要なあらゆる業務に取り組まなければなりませんでした。しかし、理事たちは、キリスト教科学の勉強と実践を通して、イエスが実証したように、は無限の、常に遍在し、不変の善であること ― つまり、が全ての知識、行動、力の供給源であること ー そして、人は、の愛する子であり、の映像、また似姿に造られていることを知っていました。そしてまた彼らは、キリスト、すなわち、エディ夫人が『科学と健康―付聖書の鍵』の中で、「善を告げる真の理念である、すなわち人の意識に語りかける、から人への神性の伝言である」(p.332)と説明したキリストが、常に現存し、限界があるといういかなる信念をも克服するということを学んでいました。 

理事や評議員たちがこの新聞を発行する準備を進めているあいだ、エディ夫人は、の導きに耳を傾けるように、また、もし聞き入れてしまうと、仕事を妨げるであろう狡猾な心的抵抗に常に細心の注意を払うようにと、促していました(キース・S・コリンズ著 The Christian Science Monitor: Its History, Mission, and People, pp.39-40参照)。一見、克服できそうもない障壁が、次々と彼らの前に立ちはだかりましたが、それら一つ一つ、すべてを克服することができました。例えば、記者たちが執筆する部屋の設備として発注されていたものすべてが、ボストンへの運搬中にロングアイランド海峡の入江の底に沈んでしまったということがありました。しかし、代わりの設備がすぐに発送されました。また、電信線が出版協会まであと1.5ブロックというところまでしか届かず止まってしまい、理事たちは、期限内に出版協会まで延長するのは不可能だと告げられました。しかし、請け負ったウェスタン・ユニオン社の社長がキリスト教科学に関心を持っていたため、出版協会の必要とするものはすべて「道理上」整うようにと命令を発しました(Commitment to Freedompp.41-42参照)。

私は、あの「霧の立ち込めた日」についての感想に対するエディ夫人の返答が非常に好きなのですが、それはこれが物質的感覚の訴えを受け入れることを即座に拒否したものであり、また、キリストの光が人類に恵みをもたらすために発散しているという霊的事実が、この誤った訴えを無効にしているからです。彼女は、モニター紙という具体的な形で現わされたこのキリストの働きの証拠を、手にしていたのでした。彼女は、この創刊号のトップを飾る論説の中で次のように書いています、「モニター紙の目的は、誰をも傷つけることなく、全人類に恵みをもたらすことである」。私には、彼女が、モニター紙が現す霊的な光に言及しながら、実は、彼女に従う人たちに、これは、何ものも、キリストが人類に恵みをもたらすために前進することを妨げることはできないことを、具体的に立証しているのであると、言っているように思われるのです。

これは、今日においても、なお同様に、真実です。私たちは、今日、暗く嵐が吹き荒れる時代に生きているように思われます。しかし、それでも、キリストは、今、ここに現存し、「は、たとえ見えなくとも、は常にこの地におられる」(フレデリック・W・フェイバー作詞 キリスト教科学賛美歌86番)ことを、私たちに示しています。

その具体的証拠が、今、各方面で示されています。地球規模の疫病と取り組むため、これまでの政治的分断が埋められていること、長期にわたって紛争の続いていた地域で停戦協定が結ばれており、また、霊的復興の兆しが人々の話題にのぼっていることなどが、モニターに報告されています。キリストの活動は、また、キリスト教科学の刊行物に掲載されている霊的癒しによって、さらにまた、世界の隅々に届いているオンラインの教会礼拝によって明らかにされており、それらは、の愛が常に現存し、全ての人を支え、誰でも活用できるものであることを人類に示しています。

2、3年前のある夜のこと、私は、このキリストの活動を実際に経験しました。自宅に一人でいたとき、突然、激しいめまいがして、他の症状にも襲われ、とても気分が悪くなりました。私は、電話のあるところまで這ってゆき、キリスト教科学実践士に電話をして、キリスト教科学の祈りによる治療を依頼しました ― 自分がの愛する子として、の愛から切り離されることは不可能であること、そして私は霊的で、健康で、完全であることを、理解するのを助けてもらうためでした。実践士が話してくれた霊的理念に私は集中することがなかなかできなかったので、父にも電話をして、家に来てキリスト教科学の教科書『科学と健康』から読んでほしいと頼みました。ところが、15分ほどして父が着いたとき、私はドアまで階段をかけ降りている自分に気がつきました。私は完全に良くなっていたのです!父に来てほしいと頼んだとき、あれほど具合が悪かったことがまるで信じられないほど、完全によくなっていたのです。

実践士に電話したあと速やかに起こったあの癒しは、は「すべてにおけるすべて」であり、人はの霊的現れであるという事実に立脚した祈りは、即時に効力があるという明白なメッセージとして、私の心の中に生き続けています。キリスト教科学の治療は、人がと一体であることの確証であり、また、人がから離れることが可能であるといういかなる暗示も、すべて絶対的に否定するものです。これはまた、物質的感覚が伝えるものが実在するとか、また物質的感覚の伝えるものがの完全な霊的創造の中に含まれ得るという暗示を、否定することをも含みます。あの癒しを経験したとき、私を脅かすと思われたどんな症状も、の創造の一部では全くなかったこと、ゆえに私の経験の一部ではあり得なかったことは明らかでした。 

エディ夫人の言葉、「私たちは、誤りの反対が真実であることを知っています」は、イエスが「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4:17)と言われたときに意味したことを、確認しているように思われます。「悔い改める」ことの一つの意味は、自分の考えを変えることです。したがって、イエスは、私たちに、天国は近づいていないという考えを逆にしなさい、あるいは、変えなさいと言っていると、私は捉えています。これが、私が体験した非常に速やかな癒しで起こったことでした。あの肉体的感覚は、私の何かがとても悪い状態にある、そして、私は今たった一人で、恐怖に怯えていると言っていました。しかし、あの感覚は、の子である私についての真実を語ってはいませんでした:つまり、感覚は、誤ったことを述べていたのです。そして、私は、誤りの反対が真実であることを習得しました、つまり、私は、健康であること;私は一人ぼっちではないこと;と一体であるということです。誤りの反対が真実であることを認めたことによって、あの癒しがもたらされたのでした。これは、キリストの癒しの力の明白な実証でした。

この論理を、今、世界で起こっていることにどのように適用することができるでしょうか。まず「恐れの反対は、何か」と問いかけることから始めましょう。その答えは、神性のが、安全、信頼、慰め、防護、保護を確証しているということです。これが、真実なのです。病気の反対は何でしょうか。健康であること、完全であることです。の王国にあって、神性のの法則の下にあって、特定の個人にせよ、グループにせよ、危険にさらされているなどということはあり得ないのです。私たちはみな、の加護の下にあって安全です、私たちは、の目のひとみであり、の肩の間に住まいを得る私たちは、みな安全です(申命記32:10、33:12参照)。私たちは、みな一人一人、常に、そしていつまでも健康であり、神性のの霊的現れとして完全です。ある人たちが感染症にかかっているという恐怖心の反対は何でしょうか。「存在に関する偉大な事実、 … 不調和なものは、何も存在に侵入することはできないのである、なぜなら、生命であるからである」(『科学と健康』、p.228)が、その答えです。

エディ夫人は、次のように書いています:「全体に及ぶ偉大なる事実、すなわちがすべてであることと、神以外には何も存在しないということ、に強く固執しなさい」(『科学と健康』, p.421)。この偉大なる事実には、に属さないものが存在する余地はないのです。エディ夫人は、さらに続けて、その事実から推論し、「病は存在しないのである」、と断言しています。誤りがどれほど現実的であり、攻撃的に見えたり感じられたりしたにしても、キリストの光は、今ここに明白に現存し、誤りの催眠術的な働きを取り払い、生命と健康の現存を明らかにしています。 

クリスチャン・サイエンス・モニターとその姉妹出版物は、あのキリストの光を、今もなお照らし続けています。したがって、私たちを取り巻く世界で何が起こっていようとも、私たちは、キリストに従うようにと私たちを導く私たちの指導者の後についてゆき、確信をもって「私たちは、誤りの反対が真実であることを知っている」と言うことができるのです。この真実は、まさに今、全人類に光をもたらしています。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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