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言い訳をひるがえす!

キリスト教科学さきがけ』1970年01月 1日号より

Christian Science Sentinel, January 16 & 23, 2012


近所に住んでいるバッドさんは、何とも私の頭痛の種になっていた。ほんとうにそうなのだ。彼と、毎回、午後を過ごすごとに、私の腰痛が始まることに気がついた。挨拶を済ますやいなや、彼は、掛かりつけの医者のこと、友人、親せき、そして体の節々の痛みなどについて、次々文句を並べ立てる。

私は、いつも、彼との会話をできるだけ避けようとするのだが、一緒に地域の庭園でボランティアとして働き、入場者に挨拶したり、案内したりする仕事をしているので、そうはいかないのである。そこで、働く日を変えて彼に会わないようにしようとするが、残念ながら他に空いている日が無い。

私が、少し遅れていった時など、彼の口をついて出てくる最初の言葉は、「さてさて、80過ぎの「少女」ロリータちゃんが、お出ましになられた」、というものである。

私が、気を取り直して、「こんにちは、バッドさん。お元気ですか?」と言うと、彼は、すかさず、「ともかく、鼻炎で死にそうだ!」と始まり、鼻の不調についてくどくど述べ、「この迷惑な花ども」が、どれほど自分の健康を害しているか、という文句を繰り返す。そこで私が、遠慮がちに、他のボランティアの仕事をしたらどうですかと提案すると、彼は、「そんなこと出来ない!これは私の社会人としての使命だ!」と素早く言い返してくる。

私の怒りはいよいよ増して、腰の痛みもひどくなる。私は、「ああ、何という災難だろう!」と思う。「こんなに美しい庭園でボランティアをしているというのに、こんな風にバッドさんや腰痛に悩まされているなんて。私は、なんというキリスト教科学者なのだろう? バッドさんの悪い気性が、私の健康を害せるとでも思っているのかしら?」

私の前任者たちも、彼の性格を正そうとして失敗している。彼は、どうやら、皆の嫌われ者になってしまっているらしい。「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」は、どこへ行ってしまったのだろうか?

しかし、待てよ、私が彼の性格をどうこうする必要はないのかもしれない。そして、もしかすると、ただ、私が彼をどう思うかを、変えてみる必要があるだけなのかもしれない。たとえば、「は愛に反映されています」(メリー・ベーカー・エディ著、『科学と健康』、p. 17)と、書いてある。これを考えてみてはどうか?

たとえば、彼の名前、バッド、「Bud」の意味の一つである「つぼみ」を用いて、心に浮かぶ美しい映像について考えてみたらどうだろう? 私は、家に帰って、机に向かい、コンピューターで類語辞典を検索する。

「Bud」:小さいもの、あるいはまだ未熟なもの。(なるほど。彼はまさにその両方だ。いい線を行っているのかな?)

「Bud」:開きかけた花。(これは、少し無理すぎる。でも、肯定的な考えであることは確かだ。)

「Bud」:殻の中で守られていて、成長しつつある芽、葉、花など。(これが、私のバッドさんなのでは? あの不愉快な言動は、弱点や不安を見せまいとする保身の殻なのでは? 彼がその不安を克服するため、私に何か助けられることがあるのではないか?)すると間もなく、私の腰痛がよくなっている、そして、笑いが芽生えてくる。

「Bud」:完全に発達していないもの。(そう、まだ改善の余地があるということ。それとも、改善すべきは、私のバッドさんに対する考えなのだろうか?)

それならば、私が彼に対して抱いているキリスト者らしからぬ思いを、「つぼみ」のうちに「摘み取る」ことはできないものか?

私が、つぼみ、「Bud」の意味と、彼との人間関係を示す定義の意味を、さらに発見してゆくと、その一つ一つの発見で、私の心は喜びはずむ。今、私は、一刻も早く庭園に飛んで行って、新しいバッドさんを発見することが、待ちきれない思いになっている。

そうだ、私は、彼の人格を現すすべての面で、今までとは違う解釈をして、それをいつも肯定的なものにしよう。

次の日、彼が、門番をしている仲間の一人を批判し始めると、私は、「彼の批判を『つぼみ』のうちに摘み取って」、代わりに、褒め言葉で返す。それが、なんと容易にできたことか! 私の「つぼみ」は、実り始め、そして、腰痛もほとんど消えている。

彼が何かの成果で得意げになっているときは、私は、「つぼみが木の枝の先で成長し、その花びらがふくらんで、今にも開こうとしている姿」を、心に描くことにしよう。私の「つぼみ」なるバッドさんは、立派な花になるのだ。(私は、自分の考えの変化に、思わずクックと笑ってしまう。そして、私の腰痛は、すっかり消えている。)

「何がそんなにおかしいのだ?」と彼は怒った声でどなりたてる。

「ここに来るのが、とっても楽しいなあと、思っていたのよ」と、私はにっこりする。

彼は、私を疑いの目で見る。嫌みになっちゃったのかな? 私は、彼に一番の笑顔を送る。「この芽を出し始めた友情に感謝しているの」と、私は、優しく言う。

そして、「彼の名前が、メルビン(変なやつ)でなくてよかった」と、私は一人、心の中で思うのだ。


フィリス・ジーノは、Beach Talk Magazine 誌の出版者、編集者で、フロリダとニューヨークに半々に住んでいる。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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