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部分的麻ひが癒される

キリスト教科学さきがけ』2012年08月 1日号より

First published in Le Héraut de la Science Chrétienne, October 2011.


2年ほど前のある日、私はあごと右のこめかみに、絶え間なく不快感を感じ始めていた。その夜はずっと祈り、少しは良くなったように感じたが、夜中を過ぎてもほんのわずかしか眠ることができなかった。

朝になって、いつもと同じように、シャワーを浴びた。私は、鏡に映った顔がひどくふくれ、右の目がはれ上がっているのを見て驚いた。私は悲しさで打ちのめされてしまった。それから、歯を磨きにいったとき、右手を自由に上げることができなかった。麻ひ状態の始まりのように思われた。私はとても心配になり、沢山の疑問が頭に浮かび、どうしたらよいのか分からず、特に、前夜、祈りによってその状態を解決することができなかったので、直るのかどうか不安になっていた。

すぐに、私は、落胆に打ちひしがれていたり、自己憐憫に陥っていることは、決してよい治療ではないと、自分に言い聞かせた。そして、私は、キリスト教科学でこれまで学んできたことを真に実践しようと心に決めた。私は、机の上に、いつも使っている聖書、『科学と健康』、またメリ-・ベーカー・エディ著の他の書物を並べ、その日の午前中は、勉強と祈りに専念しようと決めた。

祈っているうちに、物質(変形した顔とか、麻ひした腕)を癒す必要はないことに気がついた。むしろ、私はの反映として、自分が完全であることを意識しなければならないのだった。私は、キリスト教科学の勉強を通して、唯一の治療の動因は、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ 4:13)、とパウロが述べたように、キリストのあがないであり、再生させる力であることを知った。したがって、この問題を癒すために、私は神性のの無限の力のみに、徹底的に頼ることができることを知った。私は、完全で、から切り離されることができない自分の真の霊的身分に、しっかりとしがみついていた。

キリスト教科学の発見者であるメリー・ベーカー・エディは、ある日、彼女の生徒の1人である セプティマス・ハンナ判事の考えを、次のように正している。彼女は、「人は、霊的にばかりでなく、肉体的にも、の子であると教える傾向は、キリスト教科学の論理を見失わせる」ことを、彼に気付かせたのである。彼女はこの区別、つまり、罪と病は肉体につながるもので、の映像に属するものではないことを、明確にする必要があることを強調した。彼女は、神性の形而上学から、ほんの少しでも逸脱することは、キリスト教科学の癒しの結果を得る妨げとなる、と結論づけている  (L05298A、The Mary Baker Eddy Library)。

私はそれから、の理念である私の真の身分、私の本体、に属するものとは、何だろうかと考えた。私の本体は、麻ひの始まりを含まない、なぜなら、麻ひとは、どんな病気もそうだが、人の本体についての誤った概念だからである。私は、物質的な人の概念、そしてその人が物質的な環境の中で動いていて、聞き、話し、知覚し、或いは動くという自分の機能を失う可能性があるという概念を、信じることを拒絶した。存在の不滅の機能は、物質的外観を越えて、あるいは物質的な現れにも関わらず、完全なまま存続する、という霊的事実に寄り頼んでいた。

同じ日の午後、私は、自分の考えに変化が起きていることに気づいた。私の心は、落ち着き、平安と希望を感じ始めていた。私は、手を伸ばして物を取り上げることができるようになっていた。夕方、買い物に出かけた。顔の変形は消えてはいなかったが、安らかな夜を過ごした。翌朝、浴室に入ったとき、鏡に映った姿は気持ちの良いものだった;変形は消え、右手は正常で、歯ブラシを使い、顔を洗うことができた。私は、完全に癒されていた、そして、その後、この問題は2度と起きていない。

私の経験は次の文が真実であることを、私に十分に証明してくれている:「肉体感覚の証拠は、真の存在の科学をしばしば逆にして、不和の支配をかもし出す、- それはあたかも罪・病気・死に力を与えんばかりである;しかし、生命の偉大な事実は、それが正しく 理解されると、この誤りの三つ組を打ち負かし、それらの誤った立証に反対して、天の王国を啓示する、- つまり地上において調和が現実に支配することを啓示する」(『科学と健康』、p.122)。

私は、肉体の状態を変えてくださいと祈るのではなく、私たちの真の本性と完全性は、神性の所産であることを、より一層実感するために祈るのであることを、思い起こさせてもらい感謝している。全能者に統治されている人は、永遠に完全で、完全無欠で、調和している。試練のとき、私たちは、の恵みを心に留め、霊的進歩は逆戻りすることのない法則であるという確信を、思い出すことができる。パウロが聖書の中で説明しているように、「もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか」(ガラテヤ5:25)。純粋な霊性を知覚すると、私たちの真の身分が明らかになる、- そして、それは抵抗の余地無く癒しをもたらす。



『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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