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肺がんと診断されたものが癒された

キリスト教科学さきがけ』2014年07月 7日号より

Christian Science Sentinel(クリスチャン サイエンス センチネル)2013年 2月18日号より転載


私は37年間、機械工として働いてきた。この10年間働いてきた会社は、毎年、従業員すべてに健康診断を受けることを義務付けており、それにはX線検査も含まれていた。毎年、私はそれに従ってきた。

病院で健康診断を受けた翌日、病院の企業健康管理担当の看護師から上司に電話があり、私に別の医療機関で再度X線検査を受けるようにとの指示があり、私はそれに従った。

この2度目のX線検査のあと、看護師は私を事務所に呼び、これらのX線写真から私が肺がんにかかっていること、そして、多分これは職場環境によるものだろうと言った。また、この親切な看護師は、私はこの会社の従業員として、テキサス州ダラスの病院で治療を受ける資格があり、その治療を受ければ完治すると言われているから、心配することはないと言ってくれた。

私がそこに座ったまま、告げられたことについてじっくり考えていると、これまで職場や職場以外の場で経験してきた多くのキリスト教科学の治療による癒しや、私の人生がいかにに守られてきたかということが思い起こされた。看護師に、彼女の提案とは違った方法で治したいと言うと、彼女はすぐに私のファイルを見て、「ああ、あなたはキリスト教科学者なのね」と言った。

彼女はそれから自分が属している宗派について話してくれた。そして、近いうちに健康診断を受けにきて下さいね、とだけ言った。

この経験によって、私はキリスト教科学の教科書であるメリー・ベーカー・エディ著『科学と健康―付聖書の鍵』の勉強に真心こめて向かうようになり、この本を始めから終わりまで丁寧に読み続けた。1か月余り熱心に読んだころ、母から電話がかかってきた。母は、いつも私が助けを必要としている時を知っているようだった。あれこれ雑談したあと、彼女は、突然、私が、今、形而上学的にどんな勉強をしているのかと尋ねた。事の次第を話したところ、彼女はキリスト教科学の実践士に電話をして、祈りの支えを求めたらどうかと勧めた。そこで私はそうした。

実践士が祈りを通して言ってくれたことの1つは、私に対して誰も腹を立てることはできないこと、また私が誰かに対して腹を立てることもできない、そこでそのようなことがあり得るという信念を克服しなければならないということだった。彼の言う通りだった。実は、私がキリスト教科学に頼ることを決めたことに対して、同僚たちが私を非難しているように感じていて、私はそれが非常に気になっていたのである。 

当時、私は20人ほどの同僚と仕事をしていたが、私の病名を知るや、彼らは「薬を飲んでいないなら、何もしてないのと同じではないか」など、自信を失わせるようなことを、私に話していた。私は彼らが私のことを心配してくれていることが分かっていたので、これまで私が職場で経験し、彼等の何人かは目撃してきた癒しについて話したりして、キリスト教科学の治療は有効に働くことを理解してもらおうとしていた。

私は、すべての人がの愛する子であるという事実に心から頼り、腹を立てているという誤りの信念を見抜く努力を懸命につづけた。すると、自分はの手の中にあって、安全なのだという実感を得た。自分は安全だということをしっかり理解すると、周りのものすべてに対してより大きな愛を感じることができるようになり、それに応えるように、周りの人々も私により温かく、愛情をもって接してくれるようになった。 

この時期、私はまた「の居ない所はない」ということが理解できるように祈り、時折、実践士に祈りによって支えてくれるようにと電話した。私たち1人1人は、の霊的理念であること、それが私たち皆についての真実であること、つまり、私たちは、物質によって作られているのではないことを、私はよりはっきりと理解し始めていた。病気は私の実在の一部ではないということを会得することができた。あのX線検査を受けてから3、4か月のあいだ、私は自分の体の状態について懸命に祈り続けていた。そして私は自分に出来る限りの努力をしたと思い、今や、すべてをに委ねなければならないと感じた。

それから2、3ヶ月の後、最初の病院から私の追跡検査をする時期になったという電話があった。この検査の翌日、私は新しいX線写真を受け取り、別の医療機関の専門医に届けに行った。部屋に入るや否や、その専門医は、そのX線写真を私に示しながら、今日は、どんなことでここに来たのかと尋ねた。私は冗談交じりに、「あなたは専門医でいらっしゃいます。先生は、何をご覧になりますか」と尋ねた。彼は続けて、これは18歳の人の肺です、と言った。それから、私がどんな治療をしてきたのかと尋ねたので、キリスト教科学の実践士と祈り、祈りの治療を受けてきたと答えた。彼は言った、「あなたがしていることを続けてください」。こうしては癒し守られるということが証明されたことに対して、私は、終生感謝するであろう。

米国、ジョージア州、サバンナ

トロイ・ヌーナン

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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