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"神さまー 私たちの優しいお父さん・お母さん"

キリスト教科学さきがけ』2011年03月 1日号より

JSH-Online, March 2011


さまは、ストレートに愛情を表現する、神性のそのもの、そして神性なる存在です。私たちを困惑・動揺させたりは、絶対にしません。

さま – あなたは、私の、いえ、わたしたち人類一人ひとりの、それはそれは優しいお父さん・お母さんです。あなたの本質は、永遠に、一切、変わることはありません。変わること自体、不可能なのです。

今回の地震があってから、わたしは日々祈り、更にあなたを一歩ずつ知り、近くに感じています。そして、あなたがお造りになった被造物を、毎日少しずつ、一歩一歩、より理解し意識しています。あなたの創造物は、霊的です。そしてそれは、現実のもの、実在するものです。この宇宙、そして人類、私たちの一人ひとりが、あなたご自身によって、善として、創造されたのです。

私の日本の家族・友人たちですが、であるあなたご自身に、ゆだねてお任せしようと思っています。直接彼らを、大切に大切に世話してくださるのは、あなただからです。あなたの子供であることが、彼らの本体・個性だからです。物質的に図れば、親愛なる私の家族・友人たちは、遥か遠く離れた場所にいるように思われます。でも、実は、日本にいる私の家族・友人たちは、私の思い・祈りの直ぐそばにいるのです。まるで、すぐお隣さんであるかのように。だから、物質的な距離という観点で、悲しんだりするつもりはありません。事実、日本在住の私の母は、いつもどおりとても明るく朗らかで、暗い様子は見せていません。神さま、ありがとうございます。感謝します。

父・母なる私たちのよ。あなたは、「造られたものをすべて造り」、あなた自身に「反対のものは、たった一つの原子でも要素でも、創造できなかったもの」でおられます(科学と健康―附聖書の鍵、p.583)。あなたはそのものです。

地震のニュースをはじめて聞いたとき、私は一人静かに祈り、意識を静寂にしました。また、いつでも24時間体制で祈ってくれるキリスト教科学の実践士の方に、早朝電話を入れ、重くなりそうな気持ちから癒され、そしてしっかり祈ることが出来るように、祈ってほしいと依頼しました。時間が経つにつれて、私は更に意識の中で深い静寂を感じました。そして、その静寂の中に私は、大きな岩のように頑丈で揺れ動かない、ひしめかない、在る実在感をはっきりと感じ、認識したのです。それは、自分をまるで、岩にピッタリとくっ付いた、羽のように感じたかのようでした。その羽は、大きな岩に横たわっていて、安らいでいて、ビクともせず、また逆立って風に吹き飛ばされることもない羽のようでした。その羽は、ピタッと岩にくっ付いていて、まるで岩と一つになったようでした。それはそれは安全で、安心で、そして頑強で。そして、その岩のように感じたのは、私たちの存在について率直な答えをくれる真理なのです。真理とは、の同意語の一つでもあるのです。

真理は正直です。真理そのものが、がいったい何であり何を行うかを、はっきりと示してくれます。同時に、が絶対に行わないこと、の本質ではないものをも、しっかりと示してくれます。

私は、かつて、一度、瓦礫の前に立ち尽くしたことがありました。私の高校時代の親友が住んでいた3階建てのアパートの前ででした。あの日の朝に配達された朝刊は、彼女の郵便受けの中にまだあの日の日付のままで、残っていました。埃にまみれ、色があせていました。それは、あの大震災が、美しい港町の神戸を直撃した日の、数ヶ月後のことでした。中学校・高校時代のうちの5年間を神戸で過ごした私は、あの日、神戸を東京から車を飛ばして、訪ねていたのです。

それまでも私は、微動だにしない、揺れ動かない真理とは何か?と、いつも知らず知らずのうちに、心から求めていました。しかし、満足のいくものは見つかっていなかったのです。同時に、あの1995年の春の日、私が神戸で目の前にしたイメージにも、納得がいきませんでした。悲しい感情に押し流されそうになった時、私は、友人の本来の真の姿、真理によってのみ、彼女を知ることが、友人として、いかに大切かを実感していました。歪んだイメージは、受け入れられなかったのです。それは、今考えれば、霊的な正義・公正・正当な考え方を求める姿勢でした。私はその年、留学のため、東京からアメリカのペンシルバニア州に引っ越しました。そして、そこで1年半後経ったある日、いつも心のどこかで求めていた真理と出会ったのです。その真理とは、ややこしい不明瞭で混乱させる神とは、ほど遠い、非常にシンプルで明瞭なでした。それはキリスト教科学を通して得た、理解でした。

そのキリスト教科学を通して見つけたのは、私たちはの子供たちで、そして、それはそれは優しく愛情にあふれたお父さん・お母さんであるさまと、とてつもなく頑丈な関係によって結ばれているということでした。はあまりにも清くそして愛情に満ちているため、ましてや、病気・死・罪・災害・不幸といった、みずからの性質から離れたこれらの現象を作り出すことなど、決して出来なかったのです。

また、私たちのである神さまは、癒す真理科学(=キリスト教科学)を通して、私の神戸の友人を含む全ての人に関する真実を、教えてくれたのです。次の聖書の一文が、それを明確に表してくれています:「それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい… 」(コリント人への第2の手紙 5:16)。神自身の性質に正直に従い、私の友人をの霊的被造物としてのみ、はっきり認識することによって、私は、深い悲しみや混乱から癒されたのです。言い換えるならば、正直に考え、真理に従順に生きることは、すなわち、創造主との安定した心強い関係を、経験かつ表現する人生を送ることになのです。なぜなら、わたしたちの創造主は、無限の善そのものだからです。

日本での地震が起こってからのここ数日間、非常に厳しい状況の映像があふれる中、私には、この揺るがない、微動だにしない真理の光が、大きな希望となっています。ニュースを(もっぱら読みながらー繰り返される強い印象のイメージに取り付かれるのは避けながら)、日本のそして海外の友人たちの不安や恐怖を少しでも和らげたいと思い、電子メールや、フェイスブックや電話で、連絡を取り合っています。アメリカのある友人は、今回の地震について,こう言いました:「神さまを、疑っちゃいけないのよねえ。でも、やっぱり、何の罪もない子供を含んだ人々を、ああやって自然災害を通して苦しめるのは、どうも納得がいかないのよね」と。私は彼女に言いました:「そんな苦しみを与える神さまって言うのは、日本では教えられてないのよ。それは、私たちには相容れない概念よ。もしそんな神さまの姿が、納得いかないのなら、疑問に思って当然だと思う」と、言いました。

また、ここ15年連絡を取れていなかった友人で、欧州の自国に帰国していた女性は、何らかの形で私の連絡先を見つけ、電子メールを送ってきました。驚きました。彼女は、何か、世紀末が近づいているのではないか?というメッセージを書いてきました。私は、そこで、旧約聖書の列王記上から、次のシンプルなメッセージを、聖書を読んで育った彼女に送ったのです:「しかし主は風の中にはおられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた」(19:11,12)。そのメッセージを受け取った後、その友人はこう返答して来ました:「あのね、日本が今大変なのは分かってるんだけど。実も、私のためにも祈ってほしいのよ、大変な思いをしているの。」どうか助けてという彼女のメッセージに、私は役に立つであろう情報と、真理に基づいた考え方を、シェアしました。

電子力発電所をめぐる不安については、この問題が浮上し始めた当初に、何人かの友人たちに科学的に一緒に祈ってほしいと、リクエストの電子メールを送りました。日本について、既に祈ってくれているだろうとは思っていましたが、彼らの明確な祈りを通した助けを、必要に感じたのです。同時に、私は、のみが唯一の知性であり力であると祈り続けています。次の文章が非常にはっきりと確信をもって、どのように原子力に関して考えたらいいかを、位置づけてくれます:「人の完全性は不可侵である。それならば、以外のもので、人の創造主の対(つい)ではないが偽せ物である何かがどこからか存在することが出来ようか?それは神からではない、なぜなら神自身の似姿に人を創造したからである。それならば、物質と呼ばれる、原子力や、分子は、一体どこからやってくるのか?引力や結合によって形成されたのか?しかしこれらは物質の法則なのか、それとも心の法則なのか?」(メリー・ベーカー・エディ著、Miscellaneous Writings 1883-1896の中からの抜粋)。

ですから、私は今日も明日も、そして時間に制限されない私たちの実在において、に愛され、愛され続ける子供として生き続けるのです。それはそれは優しいお父さん・お母さんの腕に抱かれて。との堅実で愛に満ちた関係は、揺るがず、壊れることなく、不変です。との神性なる関係があるからこそ、私たちは、衣・食・住全てにおいて、必要を満たされ、また、様々な面において自由を得るのです。そして、の無限なる霊的被造物の一部を成す物として、私たちは、時間に縛られない、善を確かに経験するのです。そして、もっとも重要なのは、私たちは決して孤独な存在ではない、決して一人ぼっちではない!ということです。

最後に、この記事を、次の素晴らしい賛美歌で締めくくりたいと思います。この歌を歌うと、私はまるで何千マイルを越えて、日本に帰った気持ちになるのです。また、いつも通っていたキリスト教科学の教会を思い出します。そこでは、会衆が同時に、日本語と英語で、賛美歌を一緒に、声を上げて歌うのです:

視野ひらけ 
束縛をくずし去り
示せや 新天地を
アレルヤ アレルヤ

(キリスト教科学 賛美歌抄 66番)

最後の歌詞は、「示せや 新天地を 」と歌っています。これは、が既に、天(すなわち、「調和;霊の統治;神性原理による支配;霊性;至上の喜び;の雰囲気」;、『科学と健康』によるその霊的定義)、および、地(「永遠性と不滅性の一形態」p. 585)において、私達を、の理念として認識し、しっかり見ているということを示します。そして、ご自身が、平安と和の現実を、私たちの意識・そして日々の実生活において、具体的に展開・表現しているのです。そうです、私たちの、この美しい地球上で。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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