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キリスト教科学さきがけ』2011年10月 1日号より

From the May 1885 issue of The Christian Science Journal


それは、何という言葉であろう! 私はこの言葉に深い畏敬の念を覚える。この言葉は、何と広大な世界にひろがり、君臨していることであろう! 何か他から由来したものではなく、比類のない、無限にして全てなる善、この唯一なるのみが、である。

この最高のものが、その性質において、また実体において、最も誤用されているとは、一体どのような邪悪によるのであろうか。人間は、愛情を誤り伝えて、間違ったものをその名で呼ぶ。彼らは、愛情でないものを愛情とし、愛情であるものを疑う。世間一般の愛情が、その犠牲となるべき者を追い求めるのは、肉屋が、屠殺のために子羊を太らせるようなものである。低級な性癖が表現するものは、情操によって抑制されるべきである。ほかのどんな言葉も、これほど意味を取り違えられている言葉はない。ほかのどんな情操も、これほど理解されていないものはない。の神性な意義は歪められて、さまざまな人間的性質に変えられ、人間が放っておくために、ねたみと憎しみに変わる。

とは、ふだんは棚の上に片付けられ、ごくまれに角砂糖ばさみなどでつままれて、バラの葉の上に載せられるようなものではない。私は、愛に厳しく要求する。そして、愛を証明する有効な証拠を求め、愛の働きの結果としての気高い犠牲と立派な功績を求める。それらが現れなければ、本物の響きを持たない金属ごときのまがい物や模造品として、この言葉を排斥する。は単なる抽象的な概念や、活動や力を伴わない善意ではあり得ない。人間の一つの特質である、愛情のもつ輝かしい意義は、言葉では表し尽くせないものである。それは人目につかないところで行われる心優しい無私の行いであり、無言の絶え間ない祈りであり、そして、自分の利益を求めない無私の心が溢れ出ることであり、そっと横手の扉から人目につかぬようにして心優しい行いをするために出かけてゆくベールを被った人影であり、歩道を軽やかに歩む小さな足であり、欠乏とか、悲嘆,病気や悲しみに向かって扉を開ける優しい手である。このようにして、それは、地上の暗い場所を明るく照らすのである。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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